住職の独り言    その202

お暑~ございます。
何と何と、びっくりしましたなあ~。
すでに梅雨が明けてしまい、やって来たのは連日の猛暑、酷暑です。酷暑の中、「熱中症を避けるため水分を補給し、休憩を取り、適宜に冷房を使いましょう」と、呼びかけられています。かたや、電力不足なので「節電を心掛けましょう」とも、叫ばれています。人間生きていくことは難しことだと、改めて思い知らされております。

  中国唐代の浄土教者・善導大師は、私たちの貪りの心を水の河、瞋りの心を火の河に例えられました。(二河白道の比喩) 「隣の芝生は青く見える」。あれも欲しい是も欲しいという貪りの心は、すべての物を飲み尽くすように留まるところを知りません。「忠言、耳に逆らう」「良薬は口に苦し」。すぐに腹を立ててしまう瞋りの心は、自分自身の意に沿わないことを言われるとすぐに燃え盛り、大切な人間関係を一瞬にして壊してしまうことがよくあります。

 ところが、皆さんもご経験があるように、ちょっとしたことを契機として、これまでの自分の姿を反省し、心を入れ替えることも少なくありません。例えば、ことわざに込められた意味を学ぶこともその一つです。「隣の芝生は青く見える」とは、自宅の芝生を見る時は、上から見ることになる分、枯れた芝が目立つのに対して、隣の芝生を見る時は、横から見るために枯れた芝が見えにくくなるのです。そこから、自分で自分を見つめる時は嫌なところが気になる一方、他人を見る時はよいところばかりが目に入ってしまう、という私たちの心理を表しています。「忠言、耳に逆らう」「良薬、口に苦し」とは、他人の忠告が的を射ているために聞くのが辛い私たちの心の働きを表し、自分のことを心配して注意してくれる言葉を素直に受け入れることを促しています。
 こうした私たちの姿を念頭にしてお釈迦さまは、次のようにお示しになっています。

 欲の盛んな人が、自分の欲を考え、欲の薪がいつしか智慧の火となるものであることを知って、ついに悟りに入った例もある。

 このようにお釈迦さまは、煩悩と言う欲望の薪であったとしても、それを焼き尽くすことによって、すべての仏教徒が目指す智慧をそなえることができるというのです。
広く仏教では、香を焚いて私たちの身と心の穢れを浄めるとともに供養の誠を施します。そうした仏教の習いを受けて浄土宗には、次のような香偈を唱えます。

 願我身浄如香炉 願我心如智慧火 念念焚焼戒定香 供養十方三世仏
 (どうぞ、この私の身体が、まさに香炉のごとく清らかでありますように。どうぞ、この私の心が、煩悩を焼き尽くす智慧の火のようでありますように。私は、一念一念の想いの中で仏弟子として守るべき戒律と仏弟子として目指すべき心の静寂(禅定)に例えられる香を焚いて、その実践に精進することを誓い、あらゆる世界に過去・現在・未来にわたってましますみ仏に供養を捧げて、そのご加護を祈念いたします)


 この偈文は、善導大師の『浄土法事讃』に説かれています。本来修行僧は、香によって身も心も清らかにしてから(塗香・触香)、み仏をおまつりする本堂などの道場に入ります。また、皆様方のご家庭の日常においても、お灯明をともし、お線香を焚き、身も心も清らかにしてから、お仏壇に手を合わせることでしょう。勤行の冒頭に設定されたこの偈文をお唱えすることによって、こうした習いの意義を再確認し、同時に多くのみ仏に供養のまことを捧げる心持を確固たるものとしたいものです。

 小生は以前からお檀家さんに、お盆前と年末にお盆の迎え方・供養、新しい年の迎え方・しきたりなどを内容とした、小冊子をお配りしております。近年、核家族化が進み、祖父母や両親から私たちに伝えられ、そして私たちから子・孫へと伝えていくべきご先祖様の尊い智慧が途切れがちになっているのは、たいへん悲しいことです。そこで、仏様・ご先祖様をお守りいただく尊い智慧を少しでもお伝えさせて頂きたく、お盆やお施餓鬼をはじめ、仏事のつとめ方などをお配りさせて頂いております。ちいさな積み重ねが、いつか大きな智慧の火となることを念じながら・・・。



合掌
『欲の薪が智慧の火となる』
令和4年7月1日





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