R3.12月のことば 『達磨・七転八起(だるま・ななころびやおき)』
 達磨(だるま)とか七転八起(ななころびやおき)というと、皆様は何を連想されるでしょうか。何といってもあの縁起(えんぎ)ものの張子(はりこ)=達磨さんの起き上がり小法師(こぼし)を思い出される方が多いと思います。この達磨の縁起ものは、中国禅の開祖・菩提達磨大師(ぼだいだるまだいし)の坐禅姿を形どったもので、中国より伝来し日本では江戸時代中頃から盛んに作られるようになったそうです。
 この達磨は下におもりが入れてあり、倒れてもすぐ起き上がるように設計されております。そして倒れないところから、病気や災厄に勝って福を増すといわれ、縁起のよい贈り物として、あるいは願いをかける福達磨として、人気が上昇し、皆様に知られるようになりました。
 よくこの達磨に書き添えられ七転八起という言葉は、文字通り七回転んでも八回起きあがるという意味ですね。仏教ではこの世に七難か八難があると示しますが、達磨大師が七難を除滅してものともしなかったことにあやかろうというのでしょうか。七転八起にならぬところに達磨の面目(めんもく)があるような気がします。
 また、達磨さんを八つ並べた八達磨(はちだるま)の額は、どんな困難にも負けないぞという私たちの気迫(きはく)端的(たんてき)に表現したものといえましょう。最近は達磨大師の「(かつ) ‼」にゴロ合わせをした(かつ)(喝)達磨(だるま)などというのも現れています。
 うちわにえがかれて暑気を吹き飛ばす達磨さん、雪の上にゴロゴロ転がされて、達磨太りになって愛嬌(あいきょう)を振りまく雪達磨、春夏秋冬いろいろなところへ引っ張り出されてご活躍の達磨大師ですが、いろんな達磨に接する度毎(たびごと)に大師様の教えを思い出し、力強く人生を送れれば幸いなことだと思います。 
合 掌
令和3年12月1日
R3.11月のことば 『自業自得(じごうじとく)』
 「こんな目にあうのも自業自得(じごうじとく)だ」などと使い、自分の業は自分でその(むく)いを受けるという意味ですね。
 (ごう)とは、人間が()す行為のことです。すなわち、体での動作、口での言葉、心に思う考えの三つをさし、これらを身口意(しんくい)三業(さんごう)と言います。この身口意の三業は因果関係とつながっていて、無限の過去から無限の未来へと伸びています。そして悪い業が原因となれば悪い結果、善い業が原因となれば善い結果がその報いとなり、輪廻(りんね)してゆくわけです。
 経典によると、私たちがその報いを受ける時期には三つあり、すぐ受ける場合、しばらくして受ける場合、忘れた頃受ける場合とがあります。酒を飲むとすぐ赤くなり、飲酒運転で免停なんていうのは第一の例でしょう。また、歯を磨かないでいて虫歯になったり、若い頃の不節制が年老いてからたたったりするのは、第二、第三の例でしょう。この世でやったことの報いはこの世で受ける。この世で受けなければあの世で受ける。あの世で受けなければ、さらに次の世で受けるという風に、引き伸ばして考えることもできます。とにかくいずれは、善業、悪業の報いを受けなければならないのですから、前後を考えないでバカなことをしでかして、「うまくいった」などと、得々(とくとく)としていると後で毒を取られることになります。この世で好き勝手わがままに生きていては、あの世でとられる毒は、どんなにひどいでしょう。
 善い報いを受けるためには、こうして元気に生きているうちに、ぜひ良いことを積み重ねておきましょう。そう、積立貯金は、後で受ける程たくさんのお金となっています。

合 掌
令和3年11月1日
R3.10月のことば 『あきらめる』
 コロナ禍、趣味の旅行に行けずストレスが溜まっている方も多いのではないでしょうか。
これも致し方ないこととあきらめて、辛抱いたしましょう。「あきらめる」という語はこのように悪いこと、消極的なことに多く使われておりますが、あにはからんや、本来は積極的な前向きな意味なのです。
 物の道理をしっかりとらえ、原因、結果を明らかにすること、これが仏教本来のあきらめる(・・・・・)です。物の道理が分かり、なぜそうなっているのかがはっきりすれば、迷うことなく、執着することもなくなりますから、中身はともかく、外から見た感じでは自然、今日的な意味でのあきらめるに近い状態となるわけです。しかし決して断念するのでもなければ放棄するのでもありません。達観するという意味でのあきらめならば、まだ本来のあきらめの意味に近いでしょう。あきらめる(・・・・・)を漢字にすると(たい)とか(めい)になりますが、これはつまびらかにする、あきらかにするという意味の字です。
 修証義(しゅしょうぎ)という書物の冒頭に、「(しょう)を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。これを、「生まれてきたのはしかたがない、死んでゆくのもしかたがない。これが因縁というものだ。」と解釈した人がおりました。
 これは全く逆ですね。生とは何か死とは何かを積極的に究明し、これと一体になって生きぬき、死にきること、これが仏教徒の大事な課題です。世俗的なとらえ方でのあきらめではなく、本来のあきらめを成就し、明るい毎日を過ごしたいものですね。
合 掌
令和3年10月1日
R3.9月のことば 『御手洗・手水場(おてあらい・ちょうずば)』
 皆さんは便所へ行きたくなった時、何といって席を立たれますか。また、その場所がどこにあるのかを尋ねたい時、何と言って聞きますか。
 おそらく、そのものずばりを口にすることを避け、隠語を使うとか遠まわしの表現をなさる方が多いと思います。そのせいか、便所をさす語ほど多くて、表現法をてんてんと変えられてきた語も少ないでしょう。

 先日こんなことがありました。よそのお宅でのこと、あることで手を(よご)してしまったものですから、家の人に「手を洗いたいんですけど、どこへ行ったらよいでしょうか」と尋ねました。するとその人は親切にも私を御手洗へ案内してくれたのです。私はドアの前に立って途方にくれてしまいました。汚いままの手ではドアにもさわれません。「本当に手を洗うだけなんです」と必死に説明している私の姿は滑稽(こっけい)だったに違いありません。

 ところで御手洗とは本来、本当に手を洗い口を(すす)ぐことだけを目的とする場所のことなんですね。皆さんは寺社の前庭にこの設備があるのをご存じでしょう。ここを御手洗と書いてみたら(・・・)し、または手水場と書いてちょうずば(・・・・)と称します。参拝者は神仏を拝む前にここにある手水鉢(ちょうずばち)から水を汲み、手を洗い口を漱ぐわけです。寺社という浄域に入る前に不浄を除き、身も心も清浄にしてから神仏と対面する_これが何よりも大切な心得ですね。
 御手洗が今や例の場所をさすこととなり、しかもそれが常識的なのは残念ですが、少なくとも私たちはこの語が本来さすものを知っておきましょう。そして手を洗うことによって心をも同時に洗い清め、敬虔(けいけん)な気持ちで神仏と対面することを心掛けたいものです。
合 掌
令和3年9月1日
R3.7月のことば 『生活・活路(せいかつ・かつろ)』
 私たちは毎日生活をしています。でも本来の生活をしているでしょうか?()は地上に芽ばえる草木を形どった文字で、生命をもらうということですね。そして更にその生命を維持・持続してゆく本能的なものを指します。
 一方、()は水が勢いよく流れ出る意であり、解脱(げだつ) (理想)に向かって今日より明日をよりよくしようと精進するさまを指す字です。この二つの字が結びついて生活となれば、当然その意味も二つ結び付けたものとなりましょう。単に生きながらえて寿命を(まっと)うするだけでなく、理想に向かって生命を向上させてゆく=そんな毎日の暮らし方が、他の生物にない人間特有の「生活」という暮らし方にほかなりません。又、人間の生きるみちを活路と言いますが、それは仏道の異名でもあります。
 私たちはせっかく人間に生まれてきたのですから、人間界からしか行けないというこの活路・仏道を歩み、成仏することにいたしましょう。この成仏コースを辿る生活者に、新と再の二者があります。始覚(しかく)と呼ばれるコースが新で、従因向果、つまり今までに仏に成ったことのない者が修行を積み重ねて成仏するというもの。次に本覚(ほんがく)と呼ばれるコースが再で、従因向果、つまり以前に仏であった者が人間界に生まれ、あらためて元の仏界に帰ろうというものです。どちらにしても成仏に向かって精進することに変わりはありませんね。
 自分が仏となる存在であることを自覚し、あるいは既に仏であって、人間を救いに人間界にやって来たことを自覚し、人間としての生活、仏としての生活をしっかりやってゆきたいものと念じます。「我も仏」「我は仏」いや「悉有(しつゆう)は仏」です。みんなみんな仲よくして共に仏道を歩み、理想的な生活を営むことにいたしましょう。 
合 掌
令和3年7月1日
R3.6月のことば 『執着・愛着・愛執(しゅうちゃく・あいちゃく・あいしゅう)』
 突然ですが、皆様は山猿を生け捕りにする方法をご存じでしょうか?まず片手がやっと入るくらいの透明なビンを用意します。そのビンに長い縄をつけ、中にバナナ等を入れて 猿を待ちます。やがて猿がやって来て、ビンに手を入れバナナを取ろうとしますが、手が抜けません。そこを見計らって縄を引っ張るのです。猿はバナナを離して手を抜くことを知りませんから、あえなく捕まるというわけです。
 また、海のタコを取るときは、蛸壷を沈めて待ちます。タコが入ったころを見計らって壷を上げればよいのです。タコは逃げれば逃げられるのに、居心地のよい壷に執着して、引き上げられてしまうというわけです。
 執着とはこのように「物事に固執してとらわれること」を言います。仏教語としては着を著にかえてシュウジャクと読んでほしいところですが、国語としてはシュウチャクで通っていますね。離れがたい心や貪りの心をもって執着すれば、愛着(仏教読みではアイジャク)となります。また愛執とは、愛し執着することです。
 とにかく仏教では「物事にとらわれて、自分を見失わないようにせよ」と教えます。
 猿やタコのように、欲のために身の自由まで失ってしまうのは、情けないと思いませんか。笑いごとではありません。私たちもこれとよく似たことをしております。
 儲けようと思って相場に手を出し、少し損をした。今度はその損を取り返そうと思って更に深みにはまり、夜逃げをしなければならない破目になった。あるいは、安く買おうと思ってウンと値切った。あとで考えてみたら安物を安く買っただけであったなんて・・・・・。
 精神的なことも例外ではありません。五欲を離れ、いつも自由な心にしておきましょう。執著(着)・愛著(着)・愛執は、不幸を招くどころか、身の破滅にもなりかねない危険な煩悩です。注意しながら生活することにいたしましょう。
合 掌
令和3年6月1日
R3.5月のことば 『信 心(しんじん)』
 以前、知人のある住職から聞いた話ですが、彼のお寺の墓地で出来事だそうです。あるお檀家さんが自分の家のお墓をお参りしてふと側を見ると、そこに何と白骨らしきものがあったというのです。お墓の中から出てきたものではなさそうですが、何だか気味が悪いからと彼の所へ知らせに来たのです。彼が行って確かめましたが、それは間違いなく骨でした。でもそれは人間の骨ではなく、何か小動物の脚の骨で、猫かカラスが肉を食べて骨だけ置き去りにしたのでしょう。彼がその人にこうお話しすると、その人はホッとしてお帰りになったそうですが、それにしても人騒がせな骨です。
 しかし、小生は考えさせられました。なぜ人間の骨だと重大事件で、動物の骨だと捨て置かれるのでしょうか。これこそ重大な問題だと思いませんか。人間の骨  それは尊い人の遺したものだから大切なのですね。特に親族にとっては掛け替えのない宝物です。お釈迦さまの遺骨である舎利が広く供養されるのも、皆がお釈迦さまを恋慕しているからに他なりません。お釈迦さまを慕って渇仰の心を起こし、教えを求めてこれを信心しているわけです。信心とは本来「仏の教えを信じて疑わないこと」をさします。物質としてのお骨が拝まれるのではなく、お骨を通してその人の思い、仏様を拝んでいるのですね。また、イワシの頭も信心からといいますが、別にイワシを有難いと思っているわけではありません。イワシの臭さと柊のトゲが鬼を追い払ってくれると信じているわけです。
 現代は心の時代と言われて久しいです。物を壊しても弁償さえすればよいとうそぶいている輩に、その物が何物にも代えがたい母の形見であるかも知れないことを教えてあげましょう。遺骨や遺品に限らず、物には人の心がくっついています。いや物自体に心があるのです。ぜひ信心してゆきたいものですね。そうすればきっと心豊かな人生が送れることでしょう。

合 掌
令和3年5月1日
R3.4月のことば 『縁・合縁機縁・縁なき衆生』
 よく「これも何かの縁でしょう」とか「あれは縁なき衆生(しゅじょう)だ」とか言いますよね。くされ縁、縁故就職、内縁関係などもよく聞く言葉です。このように日常よく使われている縁ですが、これは仏教思想を一言で表現したものといっても過言ではないでしょう。仏教の考え方に「物事はすべてめぐりあわせによってそのようになっている」というのがあります。つまり何かが「そうなっている」のはすべてそうなる原因があったためであり、その原因を助成する事情とか条件のはたらきという「縁」が作用してそうなったのだと考えるのです。たとえば春()く種は原因であり、太陽や水や人の手入れ等が縁、秋の実りが結果です。これを因果と言っていますね。また、人と人との出会いの場合、私とあなたという二つの因が不思議な縁のはたらきによって出会うのですから、合縁機縁(愛縁奇縁)といいます。

 次に縁なき衆生についてお話ししましょう。お釈迦さまの時代、インドに舎衛城という大都会がありましたが、ここはお釈迦さまがよく立ち寄られ、また安居(あんご)をなさった所です。しかしそこの住民の三分の一はなんとお釈迦さまの姿を見たこともなければ、お釈迦さまの話を伝え聞いたこともなかったそうです。テレビも新聞もない時代でしたから仕方ないことですが、これではお釈迦さまといえども出会うことのないこの三分の一の人たちを救うことが出来なかったというものです。人にいくら仏性という種があっても、仏法を聞くという縁がなければおさとりという結果は得られません。このことを縁なき衆生度(ど)し難(がた)しと言います。この句、今では人に耳をかそうとしない(やから)を呆れてこう言いますが、本来の意味も覚えておきたいものです。私たちは幸いには幸い優れた因縁があり、仏法を聞ける身があります。度し(がた)き衆生とならないよう精進いたしましょう。

合 掌
令和3年4月1日
R3.3月のことば 『誕生・誕生会(たんじょう・たんじょうえ)』
 「誕生会」と書かれていたら、皆様はどうお読みになりましか。
「たんじょうかい(・・)」と発音される方が圧倒的に多いでしょうね。
 保育園や幼稚園又は老人介護施設などには、毎月の催し事として誕生会があるようです。でも本来は「たんじょうえ(・)」と読んで、お釈迦様の生まれた日をお祝いする法会(ほうえ)だったのです。
 お釈迦さまはお生まれになると、すぐに7歩歩かれ、右手で天、左手で地を指し「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当安之」とおっしゃられたそうです。この時のお姿を模写した仏像を誕生仏と言い、お言葉を誕生偈と申します。4月8日にはこの誕生仏をかざり、甘茶をかけてお祝いすることは皆様ご存じでしょう。
 誕生という言葉は、このようにお釈迦様の出生を指し、それ以外の人の出生にはほとんど使われることはない言葉だったのですが、やがて高貴な人や高僧の出生にも使われるようになり、宗祖などの出生地には、誕生仏ならぬ「誕生寺」が作られるようになりました。岡山県の法然上人、千葉県の日蓮上人の誕生寺などはよく知られていますね。
更に一般の人が生まれることも誕生というようになり、今では一人一人が皆、誕生日があり誕生会を行う時代となりました。
誕は大言(たいげん)をはく意の字ですが、旦に通じることから、生まれる意が加わりました。
お釈迦さまは生まれたばかりなのに、誕生偈をとなえられたそうですから、まさに誕生というにピッタリの御出生だったかもしれません。
天上天下唯我独尊・・・でもそのつぎの句をシッカリ覚えてほしいものです。「三界は(みな)苦なり 我当(われまさ)(これ)(やす)んず」です。お釈迦さまは「自分はかけがえのない尊い存在である。世界中の苦しんでいる者の心を救ってやろう」とおっしゃったのです。
私たちも、一人一人が自分の存在の尊さを自覚し、世界中の人々の為にこの命を使おうと宣言して生きたいものです。

合 掌
令和3年3月1日
R3.2月のことば 『医・医薬(い・いやく)』
 現代では「医薬」が仏教から独立し、医と薬も分業される時代となりましたが、医も薬も仏教と深い係わりを持ってまいりました。
 古代インドでは五明(ごみょう)と言って、必要な学問を五種(①声明(しょうみょう) ②工巧(くぎょう) ③医方明 ④因明 ⑤内明)に分けておりましたが、仏教はこれらの五明をそのまま引き継ぎ、中国や日本の寺院でも、これらを学ばせてきたのです。学問寺と称される大寺には医学部(()方明を()()所)を設置しているところが多かったという歴史的事実がこれを物語っております。
 医とは病を治療することですが、身体の(やまい)ばかりでなく、無明や煩悩に犯された衆生の心をいやすという部分を忘れてはなりません。
 お釈迦様は()という薬を与えて病を治されたことから、お釈迦様を医者にたとえて医王如来などとも言います。薬師如来はお釈迦様が五如来と展開して、更に慈悲を具象化した仏となられたものでして、病気を治し安楽を得させてくださる有難い仏様ですね。

 仏様が医者に喩えられるものとして、法華経にはこんなお話が載っております。
 ある良医の子供達が毒を飲んで苦しんでいた時、父である医者は子供らに良薬を与えました。子の病をいやす為に方便も使いました。そのおかげで子供たちは助かったのですが、この場合、医者とは仏様のこと、子供達は衆生、毒は邪教で良薬は法華経です。

 ところでこの子供達は良薬といえども、すんなり飲んだわけではありません。服するかしないかは子供(衆生)次第です。遺経にある「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるとは医の(とが)(あら)ず」という一文がこのことをよく物語っているでしょう。
 私達はすなおになって、仏様の処方箋に従う薬を服用し、無明や煩悩の苦から速やかに脱したいものです。
 まさに仏教は現代医学の出発点であり、そのあり方は医のあり方と同じといえましょう。
新型コロナウイルス感染者の方々のため、日夜たたかっておられる医療従事者の皆様に、心から御礼を申し上げます。
合 掌
令和3年2月1日
R3.1月のことば 『人間・人身・ありがとう』
 世の中には生きとし生けるものが非常に多くいて、私たちの目では見られない世界にまで(わく)を広げれば、その数は想像もつかないほど膨大(ぼうだい)なものになるに違いありません。しかもそれら生物の命は永遠ではなく、生まれては死んでゆくわけですから、命はどれほどあるものかと不思議に思わざるをえません。
 仏教では、有情(うじょう)輪廻転生(りんねてんしょう)するとみて、生死転変する世界を地獄(じごく)餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)修羅(しゅら)人間(にんげん)天上(てんじょう)の六種に分類しております(六道)。人間とは天上に近い所に位する有情で、私たちのことですね。私たちは、こうしてまた人間に生まれついていることを当然のことのように考えていますが、他の生物と人間の命の割合(・・・・)を比べてみると、人の身を受けて生まれるということは、実はほとんど確立のない大変まれなことだと分かります。これを「人身受(じんしんう)けがたし」と表現していますが、人身を受けた上に仏さまの教えに出合うとなるともう本当に大変な事です。
 百年に一遍しか海上に首を出さぬ盲目の亀が、広い海を(ただよ)うたった一つの(くびき)の穴に首を突っ込む可能性くらい、()ることが()しくなります。仏法を聞ける人間に生まれたこと=これこそ文字通りの有難いことといえましょう。大いに感謝しなくてはなりません。「有難う」が感謝の言葉となっている訳がおわかりいただけたでしょうか。
 感謝の生活が何より大事ですね。「有難うと言われるように言うように」は私たちの修行の標語です。「人身受け難し、今すで受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、更にいずれの生にかこの身を度せん」と唱えつつ、「有難う」を実践してゆきましょう。
合 掌
令和3年1月1日