R4.6月のことば 『法律(ほうりつ)』
 今日法律といえば国家で決めた規則・法令のことをさし、国会が立法機関となっていることは皆さまよくご存じのとおりです。日本の法律を歴史的に逆のぼると十七条憲法とか大宝律令に行き当たります。が、もっともっと逆のぼると中国を経てインドへぬけ、お釈迦さまのところに達してしまうのです。法とはダルマの漢訳でお釈迦さまがお説きくださったこの世の真理とか、社会的秩序、あるいは善い行い等のことです。また律とはヴイナヤの漢訳で、お釈迦さまが弟子に悪行ある毎にその行為の禁止と罰則とを規定された条項、いわば教団の生活規則です。
 仏教教団の最初は法も律もありませんでした。しかしお釈迦さまの教えの量が増大し、仏教教団が大きくなるにつれて自然に、仏法として戒律として体系化されてきたと思われます。この流れは一般社会においても同様でしょう。国家が小さいうちはただ一人の王様、もしくは酋長の意志によって治められていることも可能ですが、ある程度以上の大きさを持つ国家になると、国民としてなすべき条項、なさざるべき条項が定められるようになります。いわゆる法治国家の出現となりましょう。
 仏教教団はお釈迦さまが生きておられる頃は、お釈迦さまに相談しつつ治められておりましたが、お釈迦さまの後はこの法律によって治められるようになりました。お釈迦さまは、亡くなられる時、「自分が死んだあとは法をともしびとし、戒律を守って暮らせよ」と遺言なさいました。お釈迦さまの法も律も絶対的なものであることを考えれば、法律は常に真理にかなっているものでなければなりませんし、皆が仲良く暮らすためにあるものでなければなりません。皆で法律を真の法律たらしむべく関心を持って暮らしたいものです。
合 掌
令和4年6月1日
R4.5月のことば 『智慧(ちえ)』
 国語辞典では智恵も智慧も同義で「物事を(たくみ)に処する能力」とあるだけですが、仏教では智恵は人から恵みを得ることをいい、智慧は物事の実相(本質)を知り、よく判断して、覚りを完成する働きのことをいいます。
 智慧の語源はプラジュニヤまたはジュニヤナに相当し、仏に不可欠の心作用とでもいったらよいでしょうか。密教では仏に五種の智慧があるとし、すべてのものの本質となる法界体性智(ほっかいたいしょうち)、この世の諸現象を顕現する大円鏡智、これあれの差別をなくしてすべて平等と観る平等性智、すべてのものを分別、観察して応用する妙観察智、自分と他のもののみごとなつながり具合を成就する成所作智(じょうしょさっち)を説きます。
 まあ難しいことはさておき、要するにすべての仏さまは智慧をもって私たちを見ていて下さるわけで、私たちもぜひこの智慧にあやかりたいというものです。
 三人寄れば文殊(もんじゅ)の智慧といいますが、文殊さまは仏さまの中でも特に智慧を司る仏さまといわれ、智剣を持ち、獅子(しし)に乗っておられます。僧行(そうぎょう)で座禅をなさっているお姿でも多く祀られておりますね。文殊さまをよくお参りして少しでもお覚りに近づき、智慧ある毎日を過ごしたいものです。
 「自ら法に帰依したてまつる。(まさ)に願わくは衆生とともに深く経蔵に入りて智慧海の如くならん」これは三帰依文(さんきえもん)の二番目のおとなえごとです。
 仏教徒は智慧を身につけなくてはいけません。智慧の宝庫でありお経の中身をよく研究してみたいものです。
合 掌
加藤朝雄著 「暮らしの中の仏教語」より
令和4年5月1日
R4.4月のことば 『一途・三途(いちず・さんず)』
 一途はイチズとかイットと読まれ、読み方に読みぐせがあるようですね。でも、「一途な思い」という時の一途と「発展の一途」という時の一途にはどれほどの違いがあるのでしょうか。なんと読まれようと途は「みち」のことで、それもなかほどを意味することに変わりはありません。途は仏教的には「悟りを求める方法を一つに定めて、その道をひたすらにたどること」を指します。私はよく、悟りを山の頂上に喩えてお話しするのですが、どんな山でも頂上に達するための道は一本ではないでしょう。どの道をたどって頂上に達するかは別にして、とにかく頂上に達することが大切です。同じ仏教でも宗派によって、その悟りへのたどり方が違っていることは皆さまご承知のとおりですが、どの道であろうと一途にその道を前進して悟りを手に入れることが重要です。
 また、三途という時の三つの道は火途(地獄道)、血途(畜生道)、刀途(餓鬼道)を指します。三悪道のことですね。また、三途の川という時は三種の瀬のある、この世とあの世をへだてる川を指します。中国で作られたという十王経によれば、私たちが死んで七日目になるとこの川にぶつかるそうです。川端には脱衣婆というお婆さんと懸衣翁というお爺さんがいて、亡者の着物をはぎ取り、これを衣領樹という木の枝にかけて、その重さを量ります。生前に造った罪の重い者の着物は重く、枝がよくたわむと申します。軽い着物は善人の着物であり、白装束で、しかも仏名でも書いてあると、軽いことは言うまでもありません。亡者は罪の軽量によって、流れの早さが違う三つの瀬のどこを渡るか決められ、あの世へ渡るというわけですね。私たちは是非、積善の一途をたどり、一途に仏を求めてゆくことにいたしましょう。三途の川(葬頭川)の渡り方は、お葬式までの生き方次第で決まります。
合 掌
令和4年4月1日
R4.3月のことば 『恩がえし・報恩(おんがえし・ほうおん)』
 恩返しとか報恩などと言うと、「そんなのは古くさい考え方だ」などとおっしゃる人も少なくないでしょう。でもこの報恩の部分を人間から取り去ってしまったら、他の動物たちと同じになってしまいます。いや、鶴だって亀だって雀だって恩がえしをした話があるではありませんか。報恩こそ人間の人間らしい行いと申せましょう。

 仏教では単に仏祖(ぶっそ)への報恩行を説くばかりでなく、四種の恩をあげ、四恩の(すべ)てに報ずることはもちろん、生きとし生けるものを(たす)けることを説きます。
 四恩のあげ方は経典によって多少異なりますが、一般には大乗本生心地観経の ①父母(ぶも)恩 ②衆生(しゅじょう)恩 ③国王恩 ④三宝恩を()っております。まず父母恩ですが、自分を養育してもらった父母の恩ですね。
この父母恩は、四恩をどんな風に数えようとも必ず入っている恩ですから、それだけ大切で忘れることのできない恩と申せましょう。又、報恩田(略して恩田)という言葉がありますが、報恩田とは養育・教育をしてもらった者、即ち恩返しの対象で、父母のほか師長(先生や年長者)も入ってまいります。

 第二の衆生恩ですが、共に生きている皆様全部の恩ということですね。人は(ささ)え合って生きています。知らない人からも、いや地球上のすべてに支えられて生きています。だから私たちは生きとし生けるものに恩返しが必要なのです。

 第三の国王恩というには、為政者からの恩ということですね。国が平和であればこそ、私たちは幸福に暮らせます。戦争が無く、国が豊かになっているのは、為政者に恵まれていればこそでしょう。第四の三宝恩はもちろん仏法僧の恩ですね。素晴らしい教えとそれを説き伝えてきてくれた方々の恩に報ずることは何よりも大切です。  今の日本には忘恩の徒がやたら増えました。感謝どころか不満だらけで「この不満を誰にぶつけてやるか」と真剣に悩む者さえ出ている有様です。お互い感謝しあう暮らし易い世にもどしたいものですね。
合 掌
令和4年3月1日