縁起がよいとか悪いとかいうあの縁起ですが、始めに何かが起きた時、それがよいことの前兆か悪いことの前兆かを占う言葉としてよく使われているようです。またその因縁によって生起したことが不幸なことであれば因果が尽きたと言ったり、親の死に目にあえない商売を因果な商売と言ったりします。実はこれらの語は仏教の根本教理である縁起説に関係しており、縁起の教えは次のような理をもって表現されています。「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず。此れなければ彼なく、此れ滅すれば彼滅す。」
つまり、すべての現象は独立自在のものではなく、相縁って共に生ずるものであり、相関関係においてあるようになったり、無くなったりするという生起消滅の法則です。すべてのものに実体はなく、年月とともに移り変わってゆくのですが、その変わり方にプラスの方向とマイナスの方向があるのはもちろんですね。たとえば、子供が大人になるのはプラスであり、大人が老人になるのはマイナスと言えましょうか。また、煩悩はなぜ起きるのか、その因縁を無くせれば煩悩は消えるという縁起も成り立ちます。好ましい縁起を還滅縁起、好ましくない縁起を流転縁起と区別していますが、とにかく私たちは縁起にどっぷりつかって生きているのです。
縁起は大河の流れのようで、その中を泳いでいる無力な私たちでは、流れを変えることなど到底できない話かもしれません。しかし流れをよくとらえ、逆にこれをうまく利用して、対岸のさとりの岸へ上陸することはできます。また、たとえ微力でも、努力すればよい因縁に流れを変えることもできます。縁起をかついでばかりいて何もしないことこそ縁起でもないこと。積極的に良い縁起を求めて努力いたしましょう。
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合 掌 |
平成30年12月1日 |
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あることをきっかけに心の持ち方、あり方をすっかり変えてしまうことを心機一転といいますね。「さあ、心機一転だ!」とかけ声をかけるまでは良いのですが、そのあと本当の心機一転をする人が何人いるでしょうか。心機とは、心のはたらきをいう禅語であり、一転とはひとたび転ずることから従前の立場を全く変えてしまうこと。つまり、迷っている心を悟った心に変えてしまうことをいいます。
人間の心は弱いものですから、自分の力で悟ることは至難のわざです。悟に悟れない時、他から何か一言を与えられることによってパッと目の前が開け、翻然と理解できることがありますね。この時、与えられる言葉がダラダラと長いのは却って逆効果です。本当に短い言葉でよく、この心機を一転させる力のある言葉を一転語といいます。
現在、大声で叱ることを一喝するなどと使っていますが、本来の一喝は人を悟らせるためのものでした。達磨大師の一喝は有名ですね。また、昔、大徳寺の開山大燈国師や、妙心寺の開山関山国師は、
『碧巌録』第八則にある雲門禅師の「関」一字で悟ったと伝えられております。喝も関もたった一語であり、これ以上短い言葉はありません。短くても結構、いや、短いほど結構といえましょうか。それが転機となって人を悟らせることができればすばらしいことです。
相手が進退きわまった時、真実をズバリ表現することによって相手に新しい境地を開かせる。
世の親や先生にも、仏教の教育法にならって子供の心を育てていってほしいと思います。ダラダラと説教することは心機一転どころか、かえって心を閉じさせてしまうかも知れません。
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合 掌 |
平成30年11月1日 |
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夫婦や親子あるいは恋人同士の間では、おおかたが以心伝心の間柄でありますし、また新密度が高いことをそのように表現しますね。言葉を交わさないでも、心から心へ直に伝わるということは実にすばらしいことです。以心伝心とは、文字通り心から心に直接つたわることです。
文字や経典によらず、仏法を師匠から直に弟子に伝える__別の言い方をすれば教外別伝、不立文字であります。
文字面に拘泥したり、人の言葉のあげ足をとって理屈を言っているうちは本物は伝わりません。文字や音声は人にものを伝える手段にしかすぎません。行間や無言の部分にこそ本物があると言えましょう。指さす指は手段です。手段としての指をみるのではなく、指のその先をみなければなりません。本を読むときは何も印刷されていない行間を読むようにいたしましょう。また話している相手の言葉が気になったら「本当はこう言いたかったんだろうな」と気持ちを察してあげましょう。そうすればきっと、誤解を招いてお互いに気まずくなるようなことはなくなるでしょう。
手段を超越して相手の心がじかに伝わるためには、自分の心がすなおでなくてはなりません。心の鏡がゆがんでいると、みんなゆがんで映ります。真如の姿がそのまま映るような鏡にしておきたいものですね。
心をきれいにする方法は止観座禅がいちばんよいでしょう。理屈をいうのをしばし止めてただ坐ってみましょう。正師について止観座禅すれば正真正銘の以心伝心となるかもしれません。
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合 掌 |
平成30年10月1日 |
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愛敬をアイキョウと読む時とアイギョウと読む使い分けを説明している事典がありましたが、皆さまはどう思われますか。また、愛敬を愛嬌と書いたところで、はっきりとした文字による区別があるとも思えません。愛敬とは本来、仏・菩薩の柔和で慈しみをたたえた容貌を表す言葉で、古くはアイギョウと発音されていましたが、いつしかアイキョウとも読まれるようになりました。また、敬に代わって嬌の字が書かれるようになったのは、「男は度胸、女は愛キョウ、坊主はお経」ということわざで、女のキョウだから女偏だと早とちりした人によって変えられてしまったものでしょう。
次に愛語とは、布施・愛語・利行・同事という菩薩の四摂法の一つで、道元禅師はこう説いておられます。「愛語というは衆生を見るにまず慈愛の心を起こし顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり」と。 つまり、慈愛に裏づけられた愛の言葉 自分のことは一切考えに入れないで、ただ相手のことだけを思いやる、そんな言葉が愛語だというのですね。愛語は面と向かって聞けば心が楽しくなりますし、間接的に伝え聞けば肝に銘じ魂に銘ずるものを感じます。
ところで皆さまは「和顔愛語」と書かれた色紙や掛物をご覧になったことがあるでしょう。これは大無量寿經に見える成句で、仏の愛敬の相、すなわち和顔と、この愛語を熟語としたものですね。やわらいだ笑顔をして情のこもったおだやかな言葉をかわす。和顔愛語は法蔵菩薩のお徳を称えた語ではありますが、私たちもかくありたいと願い、是非このような姿勢をもって人に接したいものです。
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合 掌 |
平成30年9月1日 |
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夫婦や親子あるいは恋人同士の間では、おおかたが以心伝心の間柄でありますし、また新密度が高いことをそのように表現しますね。言葉を交わさないでも、心から心へ直に伝わるということは実にすばらしいことです。以心伝心とは、文字通り心から心に直接つたわることです。
文字や経典によらず、仏法を師匠から直に弟子に伝える__別の言い方をすれば教外別伝、不立文字であります。
文字面に拘泥したり、人の言葉のあげ足をとって理屈を言っているうちは本物は伝わりません。文字や音声は人にものを伝える手段にしかすぎません。行間や無言の部分にこそ本物があると言えましょう。指さす指は手段です。手段としての指をみるのではなく、指のその先をみなければなりません。本を読むときは何も印刷されていない行間を読むようにいたしましょう。また話している相手の言葉が気になったら「本当はこう言いたかったんだろうな」と気持ちを察してあげましょう。そうすればきっと、誤解を招いてお互いに気まずくなるようなことはなくなるでしょう。
手段を超越して相手の心がじかに伝わるためには、自分の心がすなおでなくてはなりません。心の鏡がゆがんでいると、みんなゆがんで映ります。真如の姿がそのまま映るような鏡にしておきたいものですね。
心をきれいにする方法は止観座禅がいちばんよいでしょう。理屈をいうのをしばし止めてただ坐ってみましょう。正師について止観座禅すれば正真正銘の以心伝心となるかもしれません。
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合 掌 |
平成30年8月1日 |
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「内閣の延命策をはかる」とか「死にそうな病人に延命治療を施す」とか、最近よく耳にするようになった『延命』ですが、もちろんこれも仏教語ですね。延命とは、文字通り寿命を延ばすことでして、仏さまの功徳の一つです。さらに延命菩薩といえば、この延命を専門に取り扱う普賢菩薩または地蔵菩薩のことをさします。
密教で延命法(寿命を延ばし、智慧を得ることを祈願する法)を行うときは、普賢延命菩薩を本尊としますが、一般に延命菩薩として知られているのは、延命地蔵菩薩の方でしょう。このお地蔵さまは、毎朝座禅をなさり、六道を遊化して、苦しんでいる者あればその苦しみを抜き、楽を与えてまわってくださる有り難い菩薩さまです。
この菩薩の名前を聞く人は、現に果報を得、後には仏土に生れます。この菩薩を念ずる人は、心眼が開き、おさとりが得られます。この菩薩を礼拝し供養する人は、どんな災難からのがれることができるばかりでなく、いろんな福徳を得ることができます。このお地蔵さまは自身がそのような徳を具えておられることからですね。もしこのお地蔵さまに危害・毒害を加えようとする者があっても、かえって本人についてしまうだけでしょう。「天に唾を吐き、風に向かって灰を投げれば、かえって其の身をけがすが如し」と經文に記されております。
ところで、24日はこのお地蔵さまのご命日です。このお地蔵さまは延命を誓願とし、新たに生まれた子供を守り、寿命を増させるとともに、短命、夭折の難を免れさせてくれますので、死んだその先まで道案内をしてくださるお地蔵さまの延命こそ、本当の延命です。おさとりを得て永遠の命に生きることが、小手先の延命より大切ではないでしょうか。 |
合 掌 |
平成30年7月1日 |
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「この戸は古くなってがたびししてきた」とか「人間関係ががたびししては困る」などと言いますね。がたびしを漢字にすると我他彼此と書くことをご存じでしょうか。まず、我他ですが、我とはわれ、つまり自分のこと、他とは自分を除いたほかのものごとのこと、であると私たちは承知しております。しかし、我とか他という言葉には、自分と自分以外のものを分ける、対立的な見解が内在していることにも気づかなければなりません。
次に彼此ですが、彼とは彼岸、つまり川向うのさとりの世界をさし、此は此岸、つまり川のこちら側にある私たちの迷いの世界を指します。よく考えてみると、これも対立的なものの見方ですね。仏教を説くにあたり、私たちは理解しやすくするために、時にはこのような対立語を使ってお話しすることがよくありますが、本来、我と他の別もなければ彼と此の別もないのです。個々のものを個物としてのみ把握して、根元的な万物の同一性を見失っていては、本物はつかめません。
仏教には天地と我と同根、我と他が同一体となるところに、始めて悟りが開けるとする教えがありますし、煩悩即菩提といいまして、迷い苦しんでいる自分がそのまま仏さまの命を生きているのだ、という考え方もあります。
要するに、我他だの彼此だのと分けることをしないところに本物があるということです。そして、我他彼此しないということは自分と大自然とが一体になるということだと言えるでしょう。太陽は差別なくすべてのものを照らし、慈雨は差別なくすべてのものに注ぎます。私たちも、この辺で大きく目を見開いて大空のような心となり、心の作る我此彼此を和合させて、皆共に仏道を成ぜんと願いたいものです。 |
合 掌 |
平成30年6月1日 |
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過日「仏教では南が無いと言っていますが、どうして南が無いんですか」と質問されて、私は「ん???」としばらく言葉が出てきませんでした。また「南無ってなんですか?」と問われた時もあり。これにも「え!!!」と驚くばかりでした。
しかし驚く方が認識不足だったんですね。質問された方は各々、まじめな、しかも地位のある方達だったので、人をからかってるわけではないことは明らかです。私は坊さんとして反省すると同時に、自分へもこれらの質問をしてみました。辞書を引きながら次のような答えを探し出してみました。
南無は梵語のナマスの音写語で元々は屈するという意味です。音写語ですから文字自体に意味はなく、南无・那謨・曩謨・納莫などさまざまな字で音写されてきました。経典中のこの語を訳せば帰命とか敬礼、信従などとなりましょう。佛・法・僧の三宝や神様などに自分の身命を預け、それらを敬い、心より礼拝する時に唱える言葉です。
私は前の質問者に「南無って『お任せしますのでよろしく』という意味ですよ」と御答えしたのですが、どうでしょうか。
蓮如上人は「一心一同にたのみたてまつり、後生たすけたまえとふたごころなく信じまいらすなり」とおっしゃり、内山興正師は「天地一杯の生命が生命の実物であり、そこに帰るのを帰命といい、南無という」と説明なさっています。天地一杯の生命、それを仏と名づけ、その仏に自分を預けておまかせする。そうすれば諸行無常がわかり、諸法無我が悟られ、苦が消え去って静かな心を得られるということではないでしょうか。阿弥陀仏に南無をつけ、妙法蓮華經に南無をつけ、あるいは観世音菩薩に南無をつけて帰命頂礼すれば、必ずや悩みは消えて救いがあるものと信じます。心を込めて南無〇〇と唱えてきてください。 |
合 掌 |
平成30年5月1日 |
加藤朝雄著 「暮らしの中の仏教語」より |
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辛抱していれば、やがては成功するから頑張れということを「石の上にも三年」などと言いますね。
これは、何かの故事による喩えだと思うのですが、いったいどこの誰が石の上で三年頑張ったというのでしょうか。石の上で何を成し遂げたというのでしょうか。
今から2000年も前のお話ですが、インドにバリシバ尊者というお方がおられました。この方は80歳という高齢になってから出家され、フダミダッタ尊者の弟子となられたのでしたが、「我、出家してもし三蔵を学通し、三明を得ることなくば、誓って脇を席に着けず」とばかり、大変な修行を続けられたのです。
仏教の修行は、学問もさることながら、樹下石上での座禅を大切にいたしますね。尊者は座禅石の上で座禅を組んだまま、三年も脇を席に着ける(横になって休む)ことはなかったということです。その甲斐あって遂に無上の悟りを得、お釈迦さまから数えて10代目の祖師となられました。このお祖師様は脇を席に着けて横になることがなかったことから、第十祖脇尊者という名で今日まで敬われておりますが、幼い頃、ある仙人から「この子は凡にあらず、法器となるべし」と予見されたことがあるそうです。まさに大器晩成、齢をとっても法器となるべきは、ちゃんと法器になるんだなあ、と感心せざるを得ません。
ところで54代目の祖師、螢山禅師は、その著『伝光録』の中で脇尊者の話に添えて、こんなことを述べておられます。「心身徒に 放捨すること勿れ、人々悉く道器なり、日々是れ好日なり、只子細に参と不参とによって、徹人未徹人あり」[人は皆、仏道を成し遂げることができるもの、只やったかやらなかっただけだ、せっかくの人生を無駄使いせず、毎日を好日とせよ]ということでしょう。石の上にも三年、私たちもやってみようではありませんか。 |
合 掌 |
平成30年4月1日 |
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文字面だけを見れば、苦しみを抜き、楽を与える、いわば医学の本質を指しているとも読み取れる語ですが、しかしここには、もっともっと深い意味がこめられているのです。
『摩訶般若波羅密経』の注釈書として知られる『大智度論』には、「衆生を愛念して楽を与えることを慈といい、衆生を愍傷して苦を抜くことを悲という」とされている。つまりは、慈悲です。
たとえば、我々が何かの事故で歩行困難に陥ったとしましょう。こんな時には、誰もが心からのいたわりを見せるものです。しかし、病人を慰めているだけでは、彼はいつまでも歩けるようにはならないでしょう。ときには心を鬼にして、叱咤激励してこそ、本人のためになるのです。このように「抜苦」と「与楽」という両面を巧みに使い分ける時、人々は真にバランスを保てるものなのです。慈悲とは、見かけだけの喜びや慰めを与えることではなく、もっと本質的な幸福に気づかせる行為でもあるのです。そして、この抜苦与楽の精神こそ、医学の本質と言えるのかもしれません。 |
合 掌 |
平成30年3月1日 |
主婦と生活社「仏教のことば 早わかり事典」 より |
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用具、器具、家具、あるいは用品・・・これらはすべて「道具」から派生してうまれたことばといっていいでしょう。この道具は、純粋な仏教用語。元来は、修行僧が仏道修行のために持ち歩く用具を指して用いられた言葉です。
古代のインドで修行僧が一人当たり持ち歩くことを許されたのは、
「三衣」「六物」「十八物」「百一物」とよばれるものだけに限られていました。
しかし、個人が私有を許されたのは「三衣一鉢」。つまり、日常生活用、僧堂内用、托鉢用の三種類の袈裟と、一つの鉢だけでした。尼僧の場合にはこれに二衣が加わります。
では六物とは何でしょうか。三衣一鉢に、座具と、水中の虫などを飲み込まないように水を濾す漉水嚢を加えます。さらに、十八物となると、以上の三衣、鉢、座具、漉水嚢に、楊枝、手洗いのために大豆や小豆で作った洗剤、水瓶、錫杖、香炉、手巾、剃髪や爪切りのための小刀、火打ち石、鼻毛抜き、縄床(携帯用椅子)、経典、律の要項を書いた戒本、仏像、菩薩が加わります。考えてみるとけっこうな大荷物になりますね。
では百一物とは何か。これは、今までにあげた物やそれ以外の生活用具を各人一個ずつ蓄えることが許されているという意味で、百はたくさんのもの、といった程度の意味でしかありません。
それ以上の余分なものは「長物」。邪魔で役に立たない物のたとえとして、「無用の長物」という言葉がありますが、語源はここに求めることができます。物が氾濫する現代に生きている私たちは、改めてお釈迦さまの時代の道具という言葉をかみしめてみる必要があるのではないでしょうか。 |
合 掌 |
平成30年2月1日 |
主婦と生活社 「仏教のことば 早わかり事典」ひろさちや監修 より |
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