住職の独り言」・・・・その100

 7月に入ると、一日も早く梅雨明け宣言を期待してしまいますが、明けたら明けたで、また猛暑日が続くかと想像すると、よけいに気がめいってしまいます。しかし、そんな人間どもの勝手さなどどこ吹く風、自然は悠々自適、マイペースで季節を運んでおります。
 人類の存在など自然にとっては、まったく眼中にないことなんでしょうね。

 さて、そんな中、天台宗の総本山比叡山では、千年もの昔から、変わることなく今日も黙々と続けられている行があります。
ご存知の方もおられるでしょう「千日回峰行」と呼ばれている荒行です。

 比叡山には、三つの地獄と呼ばれている荒行がございます。
一つは、「掃除地獄」。
伝教大師最澄さまの御廟(墓所)浄土院というところで、生きておられるお大師様にお仕えするのと同じようにお仕えし、浄土院境内のお掃除に明け暮れます。
もう一つは、横川元三大師堂での「お看経地獄」。
ここでは、とにかくお経を読んでお勤めをすること。
そして最後が、今日お話しの主役である「回峰地獄」です。
この行は、東塔無動寺谷、または飯室谷という所を拠点とし、七年間一千日の行です。この行をする行者さんを回峰行者とよびます。

 早朝(真夜中…?)2時には起きて冷水で身を清め、白装束わらじばきに蓮華笠、小田原提灯を持って、三塔十六谷といわれる比叡山中を、峰を超え、谷をわたり、岩のゴロゴロする急坂をかけ下りかけ上がり、草深い山道に分け入って、約300箇所のお堂、社、野仏、果ては一木一草、水や石にいたるまで手を合わせて経を読み、天下泰平五穀豊穣を祈りながら歩くのです。
 七里半約30キロ、7時間の行程でこれを100日間続けます。一日7時間歩けば、その他のことは何もしなくても良い、という訳ではありません。お勤めをしたり、自分の食事は自分で作ったりと、決められた日課をこなしたうえで、7時間歩く訳です。
 100日が単位で、雨が降ろうが雪が降ろうが、身体の具合が悪かろうが、いったん始めたら一日も休むことは許されません。ですから、挫折した時にはそれで自害するようにと、腰に短剣を帯びて回峰にむかいます。急病やケガは避けたいのですが、なかでも盲腸がいちばん心配だそうです。

 これを三年で300日行います。その次の二年間は通常は年間200日ずつで、都合700日になります。六年目は100日に戻りますが、行程が倍の距離になり雲母坂を経て比叡山西坂本の赤山禅院に詣でる赤山苦行が加わり一日十五里60キロの行程になります。
 七年目、801日目からは、その上に更に京都市中の寺社、御所などを巡拝するコースが加わって、一日二十一里84キロとなるのです。まるで気の遠くなるような距離です。この時は、京都市中に泊って、翌日はその逆をたどって山上に戻ります。これも100日続けます。こうなると夜中の12時に起きないと間に合わず、2時間しか眠らずに飛ぶように歩きます。
 そして、最後の100日間はもとの30キロの行程に戻り、都合七年間で千日の満行となるのです。
 一日84キロ歩く時は、くるぶしがダンゴのように腫れ、ひざ小僧より太くなることもあるそうで、何万本の針の上をころげ歩くようだといいます。それに睡魔にも襲われますが、お供の人(800日からお供が許されます)にも支えられ、休む間もなく行を続けます。
 このようにして一千日を満行ののちは、大行満、大阿闍梨と尊称され、京都御所へ土足参内して玉体加治の儀を行うことがゆるされています。

 この行の中でもう一つすさまじいのは、700日が済んだところで9日間の断食断水、不眠不臥の「堂入り」という行が加わることです。人間は水さへ飲んでいれば最高ひと月ほどは生きられるそうですが、一滴の水も飲まずの飢餓状態では3日で死ぬというのが普通だそうです。それを、飲まず食わず、さらに後で出される脇息にもたれる以外は横になって眠ることもせず、9日間ぶっ通しで経を読誦し、護摩を焚いて真言を唱え、国家安穏を祈るのです。
 3日目になると体の細胞が分解しはじめて、身体中から死臭が出て意識は朦朧となってくるそうですが、宿便という体の最後のものが出てしまう6日目頃は逆に意識が冴えわたってきて、線香の灰が落ちる音も聞こえるといいます。しかし、9日目になると、もう眼に光を当てても瞳孔が反応しません。98%死んでいて2%でかろうじて生とつながっている状態で堂入りを終えます。自分でたつことはできず、両脇を支えられてお堂を退出するのです。
 10日やったら必ず死ぬ、と行者さんは言います。もう千年も昔から比叡山に伝わる行ですが、初めに10日やって死んだ人がいるらしい、それから9日になり、それがギリギリの線であるようです。
「死んだ」と覚悟して行に飛び込む、1日休んだら腹を切る、病気欠勤など当たり前の世でも、比叡山ではこんな行が行われているのです。
 そしてこの行を通して、人間は自分の力で生きているのではない、大きな大きな力によって生かされているのだということをはっきり知るというのです。
 この回峰行を想う時、日頃のちっぽけな自分の悩みなどどうでもよいことだなと思わずにはいられません。

 今日は、天台宗比叡山で千年前の昔から、今も変わらず行われている、代表的な行「千日回峰行」をご紹介しましたが、この行は、天台のお坊さんだからといって誰でも出来るものでは、ありません。しかし、このような行ばかりがまた修行ではないと思います。娑婆の世界で毎日毎日四苦八苦しながら過ごしていることも、これまた大変な修行をさせていただいているのです。
 少々暑い、寒いのもこれ修行。暑さ寒さを感じなくなったら仏さんがお迎えに来てくれます。



合掌九拝


平成25年7月1日

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