住職の独り言」・・・・その103

 「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、お彼岸を境に、朝夕は肌寒く、乾燥した爽やかな暑さとなりました。
 農家の方々は、秋の収穫時期を迎え、朝早くから夕方暗くなるまで刈入れに精を出しております。お陰で、今年もおいしい新米を食させていただきました。

 そんな折、先日(お彼岸のお中日)比叡山の北峰回峰大行満、酒井雄哉大僧正が遷化されました。87歳のご生涯でした。
 ご存じの方も多いと思いますが、酒井大阿闍梨は、天台宗の荒行千日回峰行を、2度満行されたほか、日本国内はもとより、中国でも歩かれた方で、1100年前から、あまり人に知られず続けられてきた回峰行を、良い意味で世に知らしめ、酒井大阿闍梨を通して比叡山では、こんなすごい行が行われているのだ。ということを知った方が多いと思います。
 1200年の天台宗の歴史の中でも、その輝きは一段と光り輝き、その功績は永く歴史に刻まれるものと思います。
 大阿闍梨は、穏やかで温厚、「自分は行をすることしかできないから」といつもおっしゃっておられました。今の時代、これからの時代に本当に必要なお坊さんであったと思います。小生などとても足許にも及びませんが、大阿闍梨のご冥福を祈ると共に、そのお心を継ぎ、精進していきたいと思います。

 そこで今月は、酒井大阿闍梨の追悼の意味も込め、千日回峰行の創始者、相応(そうおう)和尚さまについてお話してみたいと思います。

 千日間、比叡の峰々を歩きめぐる回峰行は、とても厳しい修行として人びとによく知られています。現在のように整備された修行の形や礼拝修法が確立されたのは、元亀2年(1571)の織田信長の焼き打ち直後であったとされますが、そもそもこの回峰行という修行を創始されたのは相応さまでした。その相応さまはとても伝説の多い高僧で、それは不動明王を本尊とする修行の成果としての優れた験力(げんりき)と、気力に満ちた力強い密教修行僧であったことによりものだといわれています。

 相応さまは、天長8年(831)に近江の国(滋賀県)浅井郡の櫟井(いちい)家に誕生されました。伝承では、母上がある夜に剣を呑む夢を見て懐妊され、授かった男児が相応さまで、これは相応さまが不動明王と深く縁を結ぶことになるのを暗示したものだといわれます。また幼時から魚や鳥などの肉類や、匂いの強い野菜を食べず、芹などのつましい葉しか摂らなかったといわれています。
 承和12年(845)、成長されて15歳になられた年、師の鎮操さまにしたがって比叡山に登られた相応さまは、2年後に剃髪して十善戒(じゅうぜんかい)沙弥(しゃみ)戒)を受けて見習い僧となり、修行僧としての第一歩を踏み出されたのでした。そして『法華経』を学んで『常不軽(じょうぶきょう)菩薩品第二十』という章に至ったところで大いなる菩提心を(おこ)され、ひたすら「常不軽(ぶきょう)の行」に打ち込むことを心に決められたのでした。人はすべて生まれながらにして仏性(ぶっしょう)を持っているとし、いかなる人も軽んじることなく、人のなかに仏の姿を見出して礼拝し続けることを誓願されたのです。

 その後、相応さまは師に仕えるかたわら、根本中堂に花を供えて礼拝する「供花(くげ)」を6・7箇年間、一日も欠かさず続けられたのでした。そのひたむきな青年層の姿を見て心うたれた慈覚大師円仁さまは、「得度を」、と伝えられたのでした。しかしちょうどその頃、根本中堂で、夜に五体を地に投げ出して礼拝し、涙で袖を濡らして得度を祈願している若者を見て、相応さまはその人を先にしていただきたいと円仁さまにお願いし、その謙虚さに円仁さまは深く感銘されたのでした。2年後の斎衡3年(856)に円仁さまのご配慮のもと、大納言の藤原良相(よしすけ)さまのご後援を得て、相応さまは25歳で得度授戒され、正式な僧侶となられたのでした。その時、円仁さまは「これはまことに良縁の相応である」といわれ、また良相さまの名の一字を採って「相応」と僧名をつけられました。

 その後すぐ、相応さまは円仁さまから不動明王法などを授かり、十二年の籠山(ろうざん)行に入られ、薬師如来さまのお姿が現れるのを見られました。また静寂の地を求めて比叡山中の南峰(叡南(えなみ))に草庵を結んで苦修錬行に日夜はげまれたのでした。しかし天安2年(858)、文徳天皇の女御(じょうご)(高位の御側仕えの女官)で藤原良相さまのご息女が重病になり、病気平癒のご祈祷を依頼されたために山を下りて宮中に参内(さんだい)すると、たちまち病が快癒し、この時から相応さまの名声は広く知れ渡ったと伝えられています。
翌年、相応さまは比叡山の北に連なる比良山中を流れる西安曇川(あどがわ)の上流の葛川(かつらがわ)の滝に寵もり、穀類を断ち(わらび)類だけを食べて修行に入り、ひたすら仏さまの智慧を授かることを願うと、夢に普賢菩薩さまが現れて「今後は苦学しなくても仏さまの教えの主旨を悟れる」と告げられたといいます。また、滝の前の石上で七日間不動明王さまを念じていると、滝の内に明王さまのお姿をありありと見、飛び込んで抱き上げたらそれはただの桂の古材で、これで明王さまの尊像を彫刻されたといわれます。この尊像については諸説があるのですが、一説には同時に三体が彫刻されて、無動寺と琵琶湖畔の伊崎寺、そして葛川坊村に新しく建立された息障明王院の三ヶ寺に一体ずつ安置されたとされています。その後さらに場所を吉野の金峰山(きんぷせん)に移して山中の小さな草庵で三年間の籠山行に入り、厳しい修行に明け暮れたのでした。

 比叡山に戻られた相応さまは、貞観5年(863)に等身の不動明王像を造立されました。だがどうにもそのお像に威厳がないと感じていたところ、夢に不動明王さまが現れ「もっとよい仏工を遣わすから、この像を修造せよ」と告げられ、思いがけず仁算という名工を知って修造させたところ、相好円満した霊験あらたかなお姿になったといいます。その2年後この不動明王さまを安置して新しく建立されたお堂を無動寺と名づけられたのでした。相応さまはさらに東塔常行堂を修造され、仁和元年(885)には麓の日吉社の造営にも尽力されました。このように比叡山の堂塔の建立に力があったことから、後に建立大師さまと尊称されるようになったのです。

 相応さまは大変に験力の優れた方で、天皇・皇后をはじめ、さまざまな方の病気を平癒したと伝えられていますが、また貞観8年(866)に、祖師の最澄さまの伝教大師と、師の円仁さまの慈覚大師という大師号の賜与を朝廷に願って、勅賜を実現された方でもありました。これはわが国史上初の大師号の勅授で、空海さまの弘法大師号に先立つこと55年のことでした。こうした数々の功績を残して延喜18年(918)10月、相応さまはご本尊に謝辞され、11月3日に阿弥陀仏の名号を唱えて88歳で入寂されたのでした。相応さまには生前に得度した弟子が130人もおられたといいます。

 私たちは今日も、「峰の白鷺」と言われるように白い衣に身を包んで飛ぶように峰々を廻り礼拝する、相応さまのご精神を受け継いで回峰行に専心する修行僧たちの清廉な姿を比叡山で仰ぎ見ることができるのです。
合掌


平成25年9月27日
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