住職の独り言」・・・・その110

 みなさまコンニチは。北国からも沢山の花便りが届くようになりました。年間通して一番過ごしやすい季節を迎え、すべての生命が耀き、躍動しているように感じられます。
4月から新たな生活を始められた方も多いと思いますが、よく言われる5月病が始まる頃でもありますね。気分が落ち込んだり、体調が思わしくないような方は、思い切り自然の中に飛び込んでみましょう。海もよし、山もよし、文明の力が及ばない場所へ身を投じて、目に見えないはかりしれないほどの偉大な力を、五感で感じてみましょう。如何に自分が、人がちっぽけな存在であるか、自然の中においては、人間の力がどれほど無力なものかを感じることによって、良い意味でひらきなおり、新たな生命力が沸き起こってくることでしょう。
 5月病でない、心身ともに健康な方にもお勧めです。

 さて今回は、当地熊谷の隣町、行田市出身の天台宗の高僧、
寂光大師圓澄(じゃっこうだいしえんちょう)さま」についてお話します。歴史上、あまり表舞台に出てきませんが、初期天台宗にとってなくてはならないお方でした。
天台宗の宗祖伝教大師最澄さまには、英俊の弟子たちがいましたが、その中の一人に武蔵国出身の圓澄さまという方がおられました。性を壬生氏といった圓澄さまは、今でいう埼玉県行田市埼玉(さきたま)のご出身とされています。

 宝亀2年(771、一説には宝亀3年)に生誕された圓澄さまは、18歳の頃、「東国の化主(けしゅ)(屈指の高徳の僧)」と仰がれた道忠さまの指導の下で学問と修行をはじめられました。道忠さまは、広く人々のために仏法を説いて民衆を救済し、菩薩と尊ばれた方で、鑑真さまの弟子の中で「持戒第一」とされた方でした。

 よく知られるように、鑑真さまは失明したにもかかわらず6度目の渡航に成功して来日し、奈良東大寺で戒律を初めて日本の僧侶に授けられた唐の高僧でした。
 道忠さまは、また、最澄さまとも深い法縁を持たれた方でした。当時、比叡山にはまだ経典や仏教論書が充分備わっておりませんでしたが、道中さまは最澄さまの依頼を受け入れ、2.000余巻の経疏類を書写して贈るという助力をされたのです。圓澄さまは、こうした道忠さまの薫陶を受け、はじめは法鏡行者と呼ばれたのでした。
 道忠さまが経疏類の助写をされた翌年の延暦17年(798)、圓澄さまは比叡山に登って最澄さまの弟子となりましたが、最澄さまはこれを大変喜ばれ、ご自分の名の一字の「澄」をとって「圓澄」という名を与えられたのでした。この圓澄さまの例を初めとして、以後、道忠さまのお弟子や孫弟子が最澄さまに弟子入りすることになります。

 比叡山に入山した圓澄さまは、最澄さまの下で、他のお弟子と一緒に厳しい修行に励みます。そして大同元年(806)には100余名の人々と共に最澄さまから菩薩戒を受けたのでした。その翌年、最澄さまが我国で初めて始められた、期間を限らないで長期間『法華経』を講義する法華長講会(ほっけちょうこうえ)では、第一巻の講義を最澄さまが行なわれ、これをうけて第二巻の講義は圓澄さまが担当するよう選任されたのでした。またその次の年に開かれた『金光明経』の長講では圓澄さまが講師に選ばれたのでした。さらには、桓武天皇が病に伏した時には朝廷の勅命で、宮中の紫宸殿で五仏頂法という息災と増益を祈る密教の秘法を修したのでしたが、これは最澄さまの指名によるものでした。この時期には、最澄さまの入唐前という説と、唐に渡って求法活動中という二つの説がありますが、いずれにしてもここには、すでに宮中に出仕するほどの僧になられていた圓澄さまの活躍ぶりと、最澄さまの高弟圓澄さまへの信頼ぶりとがうかがわれます。それは弘仁3年(812)に最澄さまが病に冒された時の遺言書で、圓澄さまを次の伝法座主とされているところにも見ることができます。その後は病が回復された最澄さまに派遣されて、密教の方面では未だ不充分な天台宗の不足を補うため、弘法大師空海さまの下で密教の修学に専念することになったのでした。

 続いて弘仁8年(817)、最澄さまにつきしたがって、若い時に修行と学問に励んだ東国に向かいました。そして先師道忠さまの跡を継いだ広智さまと共に上野国の緑野寺で最澄さまから密教の両部潅頂を受けたと伝えられています。このようにして、圓澄さまは長いこと師最澄さまにしたがって天台宗の充実につとめたのです。
 弘仁13年(822)に最澄さまがお亡くなりになられると、その2年後、兄弟子の義真さまが第一世座主となられて天台宗を継承されましたが、義真さまの没後翌年の承和元年(834)には、圓澄さまが第二世座主となられました。その時、光定さまは新任の延暦寺別当の和気真綱さまに、「圓澄さまは長い間、師最澄さまの下で比叡山で修学したのでその教えが心に染みついており、その性格は寛大で慈悲深く、広く仏法に通じているので、比叡山の衆望をになって天台宗の座主となるに最適任である」という書状を送っています。座主就任直後の檀主として主宰された比叡山西塔の本堂落慶法要には、空海さまも出仕されました。また、天台僧を唐の天台山に派遣して仏法を学ばせるという最澄さまの遺志を継いで、圓澄さまは(おとうと)弟子円仁さまを請益僧に推薦しましたが、円仁さまは最澄さまの弟子になる前は、東国の道忠さまの弟子の広智さまの弟子でした。つまり圓澄さまにとって円仁さまは、道忠さまの下で兄弟弟子だった広智さまの弟子なのでした。

 また後に円仁さまは圓澄さまの跡を継いで第三世天台座主になられた方です。円仁さまの入唐が決まると、圓澄さまは広智さまに「この世の(ほまれ)、誰か此の事を争はん」と、その喜びを手紙にしたためておられます。円仁さまの入唐にあたっては、圓澄さまは天台教学の上で疑問に思う点を30問にまとめ、唐の天台山で解決の答えを貰うよう託されたのでした。この質問は日本の天台宗にとってとても大切なものでしたが、圓澄さまはその決答を見ることもなく、承和3年(836)に他界されました。円仁さまは入唐中の日記に、何度も圓澄さまについて記していますように、この重大な任務を強く意識していたのでした。このように圓澄さまは師最澄さまの意を体し、義真さまの後を継承して天台宗の経営完備に力を注いだ方だったのです。
 ちなみに平成9年、その偉業の顕彰と郷土の誇りとして、第255世天台座主渡邊恵進大僧正猊下の揮毫による「天台宗総本山 延暦寺 第二第座主 圓澄生誕の地」と刻する碑が、行田市埼玉 真言宗智山派 盛徳寺の山門前に建立されました。


合掌
平成26年4月30日



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