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「住職の独り言」・・・・その113![]() エルニーニョ現象による、冷夏の予想は見事にはずれ、例年並みかそれ以上の暑い夏になっているようです。 8月、夏本番。そしてお盆月。やがて日本民族大移動の一週間がやってまいります。故郷へ帰省される方、海へ山へ、レジャーに行かれる方。沢山の人たちが、大汗をかきながら移動します。 その一方で、夏休みも取れず、遊びに行く人の移動を横目で見ながら、酷暑の中、ふだん以上に忙しく働いている方も大勢いるわけです。 どちらが良い悪いというつもりはまったくございませんが、それぞれ、羨むことなく、卑下することなく、ありのままを受け止め、今、自分がこうしていられることに感謝できますか・・・? さて、日本人のほとんどが、一応は仏教徒と思われるわけでして、仏教徒としての生活のあり方として、 1)足ることを知る。 2)持会と懺悔。 3)他の人々のために。等々があります。 これらを総合して仏教徒の生活をイメージしてみますと、謙虚で穏やかな人柄で、自分に厳しく忘己利他の精神で自信を持って行動し、明るい気持ちの性格の人・・・という感じが伝わってきます。 しかし、人間はどうしても自分の都合の良いように考えがちです。なかなかそう簡単には理想の人間生活を送れるものではありません。順調に行っている時はまだしも、自分が苦しい場面の状況の時などは、心ならずも人の心を傷つけていたりすることはよくある事です。 人間は宗教を持っています。 人間以外の動物は宗教を持ちません。犬や猫が宗教的行動したというのは見た事も、聞いた事もありません。どなたかおいでになったら教えていただけませんか。人間だけが宗教を持つのですから「無宗教」を標榜する人は、「自分は人間ではありません」と言っているようなものと言ったら、言い過ぎでしょうか。 人間以外の動物は、食欲も性欲も自然の掟によってコントロールされています。でも人間は自然を破壊し、家畜を飼ったり、食料を生産したりしてその欲望を果てしなく拡散しています。医学は臓器移植やクローンにまで及び、宇宙科学は火星に探査機を送り、画像を瞬時に茶の間に提供してくれる時代となりました。さらにコンピューターの進歩はとどまるところを知りません。 「あなたの宗教は何ですか」という問いは「あなたは自分の欲を、どのような宗教(仏教)の教えでコントロールしていますか」ということと同義であるのです。 現在、天台宗が推し進めております活動に「一隅を照らす運動」というのがあります。 昭和44年に発足した運動で、かなり一般の方にも理解されてきたように思われます。 「一隅を照らす」という語は、伝教大師最澄上人が弘仁9年(818)に『山家学生式』を示され、その中に出てくる言葉です。 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に故人の曰く。「径寸十枚、是れ国宝にあらず。一隅を照らす、此則ち国宝なり」と。 国の宝とはまさに道心があって一隅を照らす人なのです。伝教大師最澄上人の説かれる道心とは、上は菩薩(さとり)を求め、下は一切の人々を幸福にする大誓願で、忘己利他の精神そのものであります。 この運動は大きく二つの柱を持っています。一つは「仏性の開発」であり、もう一つは「浄仏国土の顕現」という目標です。 法華経には「すべての人は生まれながらにして仏性(仏になる性質)を具えている」と示されていて、絶対の平等を意味し、精進することにより、どんな人でも仏になれると説かれています。それはたとえ現在の境遇に相違があっても、あるいは信仰に深浅があっても、人間に生まれた限り、仏性は絶対に本来具有のものであるといえるのです。 伝教大師最澄上人が「一隅を照らす人になれ」といわれたのは、「自分が仏であるという自覚をしっかり持ちなさい」と言われているのと同じ意味です。このことは更には「法華経の教えを実行する菩薩になりなさい」という意味につながるのです。 実はこの自覚こそ貴いのです。 この自覚の芽(仏性)が育まれて成長する時自分は仏になるが故に、このようにならねばならないとしぜんに強く感じ想う時、利他の浄行が顕現されるからです。 人との争いは無くなり、悪への道へも堕ちることは無いでしょう。同時に仏という自覚から流れでる温かい気持ちがそのまま他の人を動かすことになります。 この動かす力こそが「一隅を照らす」精神であり運動の原動力であります。 あなたも私も仏性があります。同じ道を歩きましょう。 暑い中、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
仏教徒としての生活〜仏性を自覚する〜
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