住職の独り言」・・・・その114

 朝夕は、だいぶ秋の気配が漂ってまいりました。
夜の気温が下がり、よく寝られたいへん助かっております。うっかり網戸のまま寝てしまうと、明け方寒くて眼が覚め、あわてて窓を閉める、日もあります。
 しかし、油断は禁物。暑さの戻りと言うこともありますからね。夏物、秋物と衣類も二刀流でもって対応いたしましょう。

さて、今月は秋のお彼岸月ですね。また、仏様・ご先祖様に関連したお話をしてみたいとおもいます。

 現在、天台宗では、平成24年4月1日向こう10年間、「祖師先徳鑽仰大法会」と銘打って、伝教大師最澄様・慈覚大師円仁様・相応和尚様・恵心僧都源信様の御生誕・御遠忌に係わる様々な行事が行われております。
 その中のお一人、恵心僧都源信様に関連したお話です。

 恵心僧都源信様(942〜1017)は、『往生要集』の著者として有名です。『源氏物語』に出てくる横川の僧都のモデルであるともいわれています。
 『往生要集』と言うと、よくダンテの戯曲『神曲』に比較されますが、それは穢れた世界として、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道を描写するなかで、この書物全体からすれば、七分の一にすぎない量ながら、地獄のことを鮮烈に詳しくのべているからです。それが、あたかも『往生要集』全体のイメージとなってしまったようです。

 ところで、極楽往生をすすめる『往生要集』の真価はそのような迷いと苦しみに満ちた世界から、理想の西方極楽浄土に往生する方法を説くことにあります。
 その第六章は、「別時の念仏」というものを説いています。その前半は、「尋常の別行」となづけて、日頃お念仏をくりかえしているなかで、どうしても惰性に流れることを克服するときには、ときには日をかぎって集中して念仏修行をするとよいという内容です。
 後半には「臨終の行儀」がのべられています。すなわち、死に直面したひとが、どのように念仏すべきかが書いてあります。
 そのあらましを見るとつぎのようなものです。

 まず、親しいものたちは、その人が病の床についたその日から、枕辺に見舞って、病人の念仏修行をはげましてあげるべきだといいます。
 そして、病人には、あの西方極楽世界のすばらしいようすと、偉大なかがやく阿弥陀仏のお姿以外考えないようにさせてあげるのだと言います。そして、耳に聞くところは、仏の教えだけとし、口にだしていうところは仏の教えだけであるようにせよという。
 そのうえで、本来さとりの世界にあるものだけれども、これまで心ならずも、苦しみや迷いの世界に生きてきたのであって、今こそ本来の正しい状態に帰るのだと考えて、それをみちびく仏と、そのことを気付かせてくれる教えと、正しい看病をしてくれる役の僧たちとに、尊敬の思いをよせるべきだという。
 すなわち、これまでの世界を厭う思いをつのらせ、阿弥陀仏の極楽浄土で往生することを切に求めるべきだという。
 そのときには、これまでの自分のやってきた念仏修行の経験を信じて、自分は間違いなく極楽浄土に往生できると確信すべきであるという。
 そのような、これまでの念仏修行によって、極楽往生は間違いないけれども、さらに、自分ばかりでなく、他の人をも導けるようになるために、極楽往生の決意をかたくせよという。
 そして、極楽浄土の中心であり、しかも我々のところまで来迎し導いてくれるという、阿弥陀仏に心を集中することをすすめるのです。

 多くの仏たちの中で、阿弥陀仏こそ、自分のためにいらっしゃる仏さまだと信じ、その尊いお姿をしっかりイメージし、その眉間の白毫から発する光が、自分の心を照らしてくれていると思い、今この部屋に、阿弥陀仏は、観音・勢至の二菩薩とともに来てくれると考え、阿弥陀仏の、念仏をしたものをかならず迎えとってくれるという誓願を信じ「南無阿弥陀仏」と命終わるまで唱えつづけよとすすめるのです。
 千年をへだたって、往生極楽を期する臨終の迎えかたには違いありませんが、もし現代の我々が、その中から学ぶところがあれば、

 第一に、看病人とは、儀礼的に挨拶しにくるものでもなければ、不自由さを補い手伝うだけのものでもなくて、病人を励まして、死をさらによりよく生きて往く「往生」する機会にしてあげる役だということです。

 第二は、そのように、死を、避けるべきもの、きらうものとせず、死に雄々しくたちむかって、よりよく「生きて往く」機会としてうけとめることでしょう。
 生きるということは、いかに死にゆくかということです。

 今回も、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


合掌



平成26年9月1日

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