住職の独り言」・・・・その119

天台大師と隋の煬帝

 早2月を向かえ、そろそろ春の気配を感じられる時期となりました。
皆様の地方ではいかがでしょうか。樹木がうっそうと茂る当山の境内は、あまり日当たりが良くないもので、ご近所のお宅に比べても、地上に近い草花の芽吹きはだいぶ遅れております。
 しかし、境内を散策しながら、よく観てみますとあちこちに春の兆しを見つけることができます。
今年の2月はどんな月になるのでしょうか。昨年は、2週続けての降雪で、記録的な積雪がありました。今年は雪かきの道具もしっかり揃えていますので、雪かきも昨年のような苦労はしなくてすむとは思いますが・・・ できれば、道具を使わないですむことを願っております。(道具を使うのは人間なので・・・)

 さて、ご存知の方も多いと思いますが、わが天台宗には宗祖伝教大師さまの前に、中国において天台の教えを残された、という方がおられます。伝教大師さまは中国に渡られこの方の悟られた、天台教学を学ばれ、日本天台宗を開かれたわけです。よって天台宗では、このお二人を、高祖天台大師、宗祖伝教大師と敬っているわけです。
今月は、このについておしゃべりしてみたいと思います。

はその生涯の中で、二つの王朝の悲劇を体験しています。そしてその悲劇は、禅師の心のひだに大きく迫るものがありました。
その一つは、禅師の父親が仕えた梁朝の滅亡です。菩薩天子と自認するほどの仏教信者であった武帝が、奸臣の反乱によって悲惨な最期を遂げ、梁朝は最後に西魏に攻め滅ぼされてしまいます。梁の高官であった禅師の一家は、戦乱、亡国、流浪と、時の激流に翻弄され、更には禅師の両親の相次ぐ死など、青年にとっては、まさに「この世の無常」を痛感し、出家を決意させるには充分なものがあったのでした。
二つめの悲劇とは、禅師が絶大な帰依を受けた陳朝の滅亡です。梁のあと江南を支配した陳は、武帝はじめ歴代の皇帝が仏教を信仰し、これを保護しました。
禅師に対しても陳朝は大檀越となり、禅師が建康の瓦官寺で『法華経』の講義をした時には、朝廷は一日政務を休み、文武百官すべてが聴講するというほどでした。しかし、この陳朝も隋の文帝の息子である晋王楊広(後の煬帝)を総司令官とする隋の大軍に襲われて、滅亡し、ここに260年にわたる南北分裂時代が終焉し、隋が全国を統一するのです。
しかし、この統一にいたる過程では、ここでも戦乱による残酷な地獄絵図が繰り広げられました。禅師が教え導いた陳朝の高官をはじめ道俗男女、幾十万もの民百姓が虐殺され塗炭の苦しみを受けたのです。

「すべての衆生の救い」を願う禅師にとって、この現実は苛酷なものでした。自分一人の魂の救済のみを考えるのであるなら、世俗の戦乱を避けて山中に隠棲していればそれで済むのですが、禅師は勿論この道をとることはしません。
中国では仏教が伝来したその当初から、国や政治力(王法)と仏教や仏教教団(仏法)との関係が問題にされてきました。出世間の教えを説く仏法は、世間そのものの国や政治から独立した存在であるかという問題であり、仏教側はその理想として仏法の孤高、独立性を高らかに唱えるのです。しかしその歴史を見れば、仏法の盛衰は王法である国家権力に左右されるという、厳然たる事実を認めざるをえません。
禅師も自ら体験した両朝の興亡の酷薄なる現実を直視して、王法、仏法のあり方を、「一切衆生を済度する」という立場からあらためて沈思するのです。

ここで、隋の煬帝について少しお話してみたいと思います。
煬帝といえば、「酒池肉林」の享楽に耽り、暴虐を尽くした殷王朝の亡国の天子、紂をはじめ、「父親殺し」によって皇帝につき、目的のためには手段を選ばなかった秦の始皇帝や、中国最後の王朝、清の西太后に至まで、中国の長い歴史の中で現れては消えていった多くの「暴君」の一人として記憶する方も多いでしょう。
 そもそも「煬帝」という皇帝名は、隋の滅亡後、唐王朝が成立してから付けられた(おくりな)であり、「煬」とは、「好色で礼を遠ざけ、天に逆らい、民を苦しめる」という意味があるとされており、その暴君ぶりを象徴的に表す称号にほかならないのです。
 煬帝は中国を統一した隋の高祖文帝楊堅(ようけん)の二男として生まれ、本名は楊広といい、ちちの即位とともに晋王広(しんのうこう)と称しました。父文帝は、官吏登用試験の「科挙(かきょ)」の制度を創設したことで有名であり、中央集権体制の強化をはかるなど、すぐれた政治手腕とまた質実剛健を旨としたことから、隋の国力を飛躍的に充実させました。彼は更にその統一政策として仏教による文治策を採りました。それはあたかも阿育王(あしょかおう)の仏教による全インドの統一という治世に見習ったものともいえます。文帝はまた、猛毒独弧(どくこ)皇后の在世中は中国の皇帝としては珍しく、側室も置かず一夫一婦制を厳守しています。
 楊広(煬帝)は、幼児から機敏で賢く、学を好み文をよくし、また晋王となってからは行軍元帥として南朝の陳を滅ぼして武勲も立て、兄弟中で父母とくに母独弧の寵愛を受けました。機を見るに敏な彼は、男女関係に病的なほどに潔癖な母を利用し、巧みに策動して、男女関係にルーズな皇太子の兄楊勇を失脚させ、後継者のポストにまんまと就いたのです。
 彼が皇太子となった2年後にまず独弧皇后がこの世を去ります。すると今まで皇后の監視下にあった文帝は開放されて急に乱れだし、後宮の美女とくに陳夫人を寵愛するようになります。文帝が陳夫人と離宮に滞在中に重い病にかかると、その機会をとらえ、腹心の楊素(ようそ)とはかって父武帝を(しい)し、更には文帝の遺詔と偽って兄楊勇(ようゆう)およびその子弟をも殺したのです。
 父親殺し、兄弟殺しによって、首尾よく二代皇帝の位についた煬帝は、もはや誰にはばかることなく、文帝の蓄積した資産を盛大に浪費することになります。あの万里の長城を修築した秦の始皇帝と同様に、彼もまた巨大建築マニアでした。
 彼が行った最大の土木事業は何と言っても、「大運河」の開(さく)です。百万余の民衆を動員して黄河から准水(わくすい)、揚子江に達する一大工事で、この大運河の開通により首都長安から江南の揚州まで、一路、船で往来できるようになったのです。
 しかしこれを完成させた煬帝自身の目的は、この大運河に「龍舟」と称する豪華船を浮かべ豪遊することでした。この船は四層で高さ約14メートル、長さ約620メートルという、とてつもない壮大なもので、それにお供の船団、護衛艦を合わせると数万隻が連なり、この大船団は約100キロメートルにもなったといわれます。
 この大運河は、後世、現代の中国に至まで、中国に大きな遺産として残りました。しかし煬帝自身はあくまで自分の個人的快楽を求めるための贅沢でしかなかったのです。ここに私達は歴史の皮肉を認めざるを得ないようです。
 煬帝はこの大運河のみならず、宮殿や離宮なども何百万の民衆を動員して次々と建築しました。そして後宮に多くの美女を集め、その好色本能を爆発させたのです。しかし彼は究極の贅沢三昧に明け暮れながらも、年を追うごとに被害妄想が強まり、恐怖症に悩まされるようになりました。
 後世に無類の暴君と称される煬帝にも、一人の人間としての魂の救いが必要であったのでしょうか。晋王広といわれた若き頃の天台大師との出会いとその消息が、人間煬帝を考える上で大きな示唆となるでしょう。
 時あたかも旭日昇天の勢いである凱旋将軍で揚州総監として就任した頃の晋王から、かねて高僧として名声を博している禅師のもとに書簡が届けられるのです。それは「自分を済度していただきたく、是非とも来駕を請う」という内容でした。
 禅師はこの新しい権力者に、世の安寧を期待したのでしょうか。「私は大王とは深い因縁がある」と、すぐその要請に応じ、これが禅師と晋王(煬帝)の深い関係の端緒をなすのです。
晋王が禅師に菩薩戒を授けられ、仏弟子となった時の文には「如来の慈と同じくし、諸仏の愛を弘め、衆生をみるときには、我が子を見るごとく慈愛の心で接したい」と誓っています。そして授けられた法名は総持(善を持し、悪を起こさぬという意味)であり、晋王は受戒の喜びを禅師に「智者」の号を賜うことで表します。この晋王の禅師への敬愛の念は、終生消えることなく持続されました。
 後世に、悪逆非道の暴君の代表的皇帝とされる煬帝にも、受戒の文に示されているような、仏の慈悲の心を希求し、自らもその心を体したいとする善なる心象が認められるのです。この文を、単なる権力者の飾り言葉とみなしては、禅師の臨終まで続く煬帝の禅師への献身と、書翰類にみられる仏法崇信の念は説明がつきません。
 無類の悪を犯した人間ほど、自分の心に地獄を見、自分の罪業の深さにおののき、自分の魂の救いを強く求め、善にあこがれるということでしょうか。

合掌
平成27年2月1日


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