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住職の独り言」・・・・その120 修禅大師義真さま ![]() 新しい年になり2ヶ月が過ぎましたが、この間、海外・国内であまりにも残忍な事件が次々と発生し、これから先、人類はどんな方向へ進んで行くのでしょうか。今こそ他人事ではなく、それぞれが自分自身の問題として、生命というものを考え直すとともに、周りの人々とも機会をつくって話し合いをもって、人類にとって何よりも大切なものが生命であり、かけがえのないものであることを、再確認しなければいけないと思います。これは、老若男女、人間はもとより、森羅万象、この世に生存しているものすべてに云える事です。 さて、今月は、天台宗の宗祖伝教大師さまのお弟子さんについてお話してみましょう。 伝教大師さまには、数々のお弟子さんがおられました。その一人で、比叡山に新しい大乗の教えに基づく戒壇を設立するという伝教大師さまの悲願の実現に大きな役割を果たされた光定さまは、「最澄法師には二人の弟子がいる。その弟子とは、義真と円澄である。義真法師は上臈、円澄法師は下臈である」 といわれました。義真さまと、その後輩円澄さまは特別な存在だったのです。しかし、このように草創期の天台宗にとって大きな存在の義真さまの事績は、思いのほか明瞭でないことがたくさんあるのです。 義真さまは相模の国(現在の神奈川県)鎌倉郡の出身といわれ、『天台座主記』にとれば天長10年7月4日に55歳で亡くなったとされますので、逆算すると生まれた年は宝亀9年(778)ということになります。ただ、生年については他に天平宝字(757)、宝亀11年(781)、天応元年(781)説もあります。 義真さまは、大陸から帰化した人々が多く住んだといわれる相模で、幼くして漢字の音や漢文の読み方を学んでいたようです。出家してからも奈良の東大寺の慈賢さまから漢語を学び、興福寺の慈蘊さまから法相宗の学問を、また鑑真さまお弟子から戒律を学びました。そしてその後、比叡山に登って伝教大師さまのもとで天台の教学を修めたのです。また、大安寺で伝教大師さまが師匠の行表さまの下で禅や三論宗を学んでいた時、義真さまもそこで一緒であったということもいわれます。 延暦21年(802)、天台教学を学ぶために唐国に行くことと、通訳として義真さまを伴う許可を桓武天皇にお願いする上表文の中で、伝教大師さまは、 「義真は、幼い頃から漢音を学び、ほぼ唐語を習得しております。また少壮にして聡明で、仏教の経論を広く研究しております」 と記されました。宝亀9年生まれだとすると、義真さまは当時まだ24歳の若さでした。いかに伝教大師さまが義真さまを優秀な弟子として期待していたかが分かります。通訳は大変な仕事です。現地での入国手続き、天台山への旅、日常の会計や諸折衝はもとより、高度な天台教学に関する通訳も行うのです。その上、伝教大師さまは、義真さまを単なる通訳としてではなく、現地で共に天台仏教を学ぶ人として考えておられたのでした。 暴風にあったりで、九州に1年4ヶ月も留まったのち、お二人は延暦23年に遣唐使船の第二船に乗って出発し、唐の明州に上陸、そこから台州に向かいました。台州の龍興寺では、ちょうど中国天台の第七祖の道邃さまが招かれて講義をしていたのです。その後、道邃さまと兄弟弟子の行満さまに迎えられ天台山に登り、そのもとで伝教大師さまと共に天台を学び、禅林寺で脩然さまから禅を学びました。また得度だけで受戒していなかった義真さまは、当地で僧侶として扱われないと不都合があるために天台山国清寺で具足戒を受けたのでした。 天台山での研究を終え、麓に戻ったお二人は、道邃さまのもとでじっくりと天台の勉強を行うと同時に、大乗の戒律(菩薩戒)を受けたのです。その後さらに越州(現、紹興)に行って龍興寺で順暁さまに会い、峰山道場で共に密教を受法したのでした。このように、義真さまは伝教大師さまと共に、唐で円・密・禅・戒(天台学・密教・牛頭禅・菩薩戒)を学ばれたのでした。 帰国後の義真さまの消息については、あまりはっきりしておりません。確かなことは、唯一、故郷の相模に帰られた時期があったこと、伝教大師さまの遺言で後継者に指名されたこと、伝教大師さまが亡くなられた七日後に大乗戒壇が勅許され、その初めての授戒を戒和上として統率したこと、淳和天皇が各宗の概説書を提出するよう勅令された時、天台を代表して『天台法華宗義集』を書き、講堂や戒壇院を建立なさったことなどです。 義真さまは初代天台座主として10年間比叡山を率い、修禅大師の号も与えられました。ただ、当時これはあくまでも比叡山内での称呼でした。座主の称号の公認は第三代の慈覚大師円仁さまが初めてで、大師号の公認は円仁さまがお亡くなりになられた後、お弟子の相応和尚さまが朝廷に伝教大師さまと慈覚大師さまの大師号を申請し許可されたのが初例です。これは空海さまが弘法大師号をいただく55年前のことでした。 伝教大師さまは、比叡山に大乗の戒律を授ける天台独自の戒壇を建立することを念願され、そのために矢継ぎ早に大部のたくさんの書物を書かれています。研究者によりますと、その作業を、実は義真さまもお手伝いなさったのではないかということです。 義真さまの一生は、伝教大師さまを支えて天台教団の基礎を固め、整備することに奔走した生涯だったのです。現在、比叡山の大講堂脇には、義真さまを顕彰する碑が神奈川教区の人々の手によって建立されています。比叡山にお参りの際には、ぜひお立ち寄り下さい。そのすぐ上には、伝教大師さまが心血を注がれ念願された、戒壇院も建っております。
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