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住職の独り言」・・・・その129![]() さて、今年最後のおしゃべりになります、この一年を振り返りつつ、新しい年への夢、希望などを考えながらお聞きいただければ幸いです。 暮れから正月を迎える頃は、一年の中でも特別な季節のような気がします。子供の頃のあの浮き立つような気分は、さすがにこの歳になると薄くなっていますが、普段はあまり思い至らない我が身の来し方行く末を静かに思いめぐらすのに、相応しい時節と云えましょうか。 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 これは初春の雪がしんしん降り積もる。そのようにめでたいことも積み重なってほしいと、願いをこめて歌った大半家族の歌ですが、新年を迎えて、今年もよい年でありますようにと願う気持ちは、人間の自然の情としていつのじだいにおいても変わらないものです。 しかしこのような新春を寿ぐ雰囲気に冷水を浴びせ掛けるような歌もあります。それは一休禅師の歌 元旦や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし です。元旦に人々が新年を祝っているとき、一休禅師は墓場から拾ってきた「されこうべ」(髑髏)を竹の先に振りかざして、「ご用心、ご用心」といって歩き回ったという。正月早々から縁起でもないと人々は門を閉ざします。確かに私たち現代人にとっても、「おめでたい正月になにもこのような嫌味なことをしなくても」と思います。この時もある人が義憤を覚え、一休禅師問いただしたところ、「人生はことごとく夢まぼろしの中にある。われわれの着飾ったこのからだも、一皮むけば骸骨でしかないだろう」と、人生の真相をつきつけ、「だれもが、いつかは骸骨になるとは知っているのだろうが、昨日も何事もなくすんだので、今日も明日も無事に違いないときめかかっている人に、用心せよというなり」「ただ人は是(されこうべ)にならねば、目出度きことは何も無し」と語り、この歌を詠ったという。 かつては「人生50年「といわれましたが、現代日本では「人生80年」或いは「人生一世紀」などと言われるほどになりました。いつまでも健康で長生きしたいと思うのは世の常ですが、やはり50年が100年に延びたとしても、死は確実に、そして平等に訪れるのです。頭の中でだれもがそのことを知っているのです。日常の生活では大病にでもならない限り、死を意識することはない、或いはあえて意識から遠ざけて生活し、そしていざとなるとあわてふためく。これが私たちの実情です。 ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざしりを 在原業平 今までは 人のことかと 思ひしに 俺の番とは こいつはたまらん 太田蜀山人 まさに私たちが死をつきつけられたとき、このような心境になることは間違いありません。自分の命はまだまだ十分ある。死ぬなどまだ遠い先のことだ。自分には関係ない、他人のことだ、と根拠のない安心をしているのです。 死を意識的にも無意識的にも遠ざけて、現前の安逸に身を浸し、眼前のものごとに執着し続けている。これが私たちの実相です。そしてその場になって「俺の番とはこいつはたまらん」うろたえることのないように、一休禅師は「されこうべ」を私たちにつきつけるのです。しかし私たちが死と隣り合わせの存在であったとしても、虚無的になったり、マイナス指向になる必要はない。むしろ限りある生を生きている人間だからこそ、今生きている在り難さを心から思い、一度自分自身に「されこうべ」をつきつけてみろと一休禅師は云うのです。 そこから、私たちの今の生のあり方、あらゆるものに執着している自分の姿に思い至るはずです。その自分を一度否定即ち精神的に死(されこうべになること)を経験することにより、また新たなよみがえり(目出度きこと)があると云うのです。 『徒然草』の されば、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや この言葉が、心に迫ってきます。
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