住職の独り言」・・・・その130


 皆様こんにちは。
年末から年始にかけては、異常なほど温かく穏やかな日々が続き、その後降雪を境に、寒波が押し寄せ・・・と、目まぐるしい気象で幕を開けた平成28年も、早や1ヶ月が過ぎました。皆様には体調を崩すことなく、ご健勝のことと拝しております。 昨年暮れから年の初め、例年になく忙しくなってしまい、新年のご挨拶はもとより、1月の更新もできず、皆様には大変ご心配をお掛けしてしまい、申し訳けございませんでした。
懲りずに本年もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 天台宗のお勤めの折にお唱えします最初の三礼に、

   一心頂礼十方法界常住仏(いっしんちょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうふつ)

   一心頂礼十方法界常住法(いっしんちょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうほう)

   一心頂礼十方法界常住僧(いっしんちょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうそう)  というのがあります。

 仏法僧に対して、「(うやうや)しく(うやま)います。」というこの三帰依文(さんきえもん)の句は、仏教徒であれば誰でも、いつでも、どこでも口にできます。
 インドの古語では、
   ブッダン・サラナン・ガッチャーミー
   ダンマン・サラナン・ガッチャーミー
   サンガン・サラナン・ガッチャーミー  となります。

 以前、インドのほぼ中央部に位置しますポーニ村の禅定林(ぜんじょうりん)という所でのことです。これから孤児院の地鎮式の法要が、地元の1000人以上の人々が参列する騒然とした中で開式されようとしていました。日本式の法要では、何が何だかわからないでありましょう。会場は静まる様子はありません。でもこの『ブッダン・サラナン・・・・・』と僧侶が唱え始めると、一瞬にしてシーンと静まり返り、その後の法要が厳粛に執り行われたということがありました。
 それほど、インドでもこの一文は深い意味をもって人びとの心に受け継がれていると知り、大変感動しました。

 フランスの詩人、ボードレールは「全ての人間の中には、どんな時でも二つの願いが同時に存在している。一つは神(善)に向かい、一つは悪魔(悪)に向かう」と述べていて、“なるほど”と妙に納得している自分を見い出してしまっているのです。
 『善悪は人のあらず自らの心にあり』と言いますが、心は人を仏にし、また畜生にもします。迷って鬼となり、悟って仏となるのも、みなこの心の仕業です。このことが、不安なのです。
 「この世に神も仏もあるものか」と広言してはばからない人がいます。それらの人も含め私達は何を聞き、何を思い、何をすれば良いのでしょうか。
 それは、自分自身に対して嘘をつかず忠実に、仕事に対しては確実に、人に対しては誠実に生きるということでありましょう。自分にして欲しいと思うことを、人にする。自分にして欲しくないことは、人にしない。この事が、人と人の間、つまり“人間”関係においての考え方の基本です。
 逆に、心が濁れば行いが汚れるのです。
 常に自己反省をして今の生き方と対峙していかねばなりません。
 ですから、私達は毎日勤行することで、この不安を解消することが必要なのです。何故なら勤行を続けることにより大きな力が、“やすらぎ”となって、勤行するあなたを包み込むからです。

 また、病気や災難をどのように受け止めるかは、その意味で重要です。やたらと悲観したり、人生に背を向けたりせず、良くも悪くも“恩寵(おんちょう)として” 泰然(たいぜん)と受容出来るかどうかは、その人のその後の人生に大きく影響します。それにはまず、“プラス思考”を心がけることが大切です。お釈迦さまは『心のもち方、心のはこびかたを“チョット”意識して変えると、大きな世界が見えてきますよ』と私達に教えて下さっているのだと思います。
 このことを自分で実際体験した時、私達は、“守られている”という信念を持つことが出来るのです。
 そして仏の教えは、常に考え、常に修めて捨ててはなりません。もし教えの通り行うならば、常に幸せに満たされることでしょう。そして、このように徳を積む修行を続けることが出来れば、必ず良い“縁”と出会い、魂が喜ぶのです。

  続けることの難しさ
  続けることの尊さ
  続け得る有難さ    といえます。

 仏教を理解するということは、人生からその教えを学び、それによって豊な時を送るということであります。幸せな人生は自分自身のためであり、お釈迦さまはじめ、先人の多くの生き方や考え方を学ぶということは、それを自分に当てはめて、精進努力することにあります。
合掌
「悠久の中で」

平成28年2月1日



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