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住職の独り言」・・・・その132![]() さて、以前、奈良興福寺の阿修羅像を中心とした、「阿修羅展」が東京国立博物館や九州国立博物館で開催され、100万人以上の入場者があり「ツタンカーメン展」以来の大ヒットになったことがありました。この仏さまは、私も大好きですが、日本でも人気のある仏さまとして、上位にランキングされる仏様ではないでしょうか。「奈良・興福寺展」としなかったことも頷けます。 三面六臂のお姿は経典の図像に出てきますが、お顔立ちが違うのです。本来は常に闘争を好んで荒々しいお顔をあいていますが、興福寺の阿修羅像は大変美しい青年のお姿をしていて、争いや体の筋肉隆々たる所など微塵もありません。どうしてなのでしょうか。作者はどんな気持ちで、このお像を作られたのでしょうか。それを考えるに少し阿修羅について調べてみたいと思います。 阿修羅はサンスクリット語のアスラの音写語であります。インド最古の宗教文献であり宗教・哲学文学の根源をなし偉大な自然現象を賛美して歌った抒情詩『リグ・ヴェーダ』によりますと、決して今日いわれるような悪鬼ではなく、むしろ最高神を意味していたようです。 当時神を表す語はデーヴァで、アスラがそれに対立するものとなって行きます。前者は友愛に富み親しみやすい性格を表し、後者は正義感は強いが恐るべき呪力をそなえ、近づきがたい不気味な神格を表していたようで、この辺から後代、単純に悪魔を意味するようになったのではないかといわれております。 また、ヒンドゥー教の叙情詩においても、アスラは神々の敵役として活躍しますし、やはりインドの古い叙情詩『マハーバーラタ』においても、不死の飲料アムリタをめぐる、神々とアスラの争奪戦や、天女ティローッタマーを争って殺しあったアスラの兄弟の話などがありますが、なんといっても有名なのは、やはり天の中では最高の強さを誇る神、帝釈天との戦いであります。 宇宙の中心にあるとされる須弥山に力の神、帝釈天や正義の神アスラが住んでいました。アスラに美しい娘スジャーがおり、常々帝釈天に嫁がせたいと願っておりました。ところがある日、帝釈天はスジャーに偶然であって一目惚れしてしまうのです。そして嫌がるスジャーを無理やり自分の館に連れ去ってしまったのです。 正義と物事の順を重んじるアスラは兵を集め怒りにまかせて帝釈天に挑みますが勝てるはずがありません。何度も何度も挑みますが、とうとう須弥山から追放され、大海の海底につきおとされてしまいます。以来アスラの住処は大海の底とされるのです。 アスラの正義は理解できますが、あまりにも性急で独善的ではないでしょうか。本来、帝釈天に嫁がせようと考えていたのなら、話し合いによって円満に解決ができたはずです。 私たち人間にも、誰しもこのように考える青年期がありました。白か黒か、他の答えは考えられない純粋で穢れのない気持ち。これはこれで大事にしなければいけませんが、歳とともにその中間の考えもあることに気がついてまいります。 興福寺阿修羅像の作者は、闘争的で冷静さを失った神ではあるけれども、本来の正義感を前面に出したかったのと同時に、このお像が人間の心にも潜む、闘争心と正義感をも表すためには、限りなく人間に近いお姿で、しかも青年でなければならなかったのです。 このお像を拝していると、美しいお顔ながらも眉をひそめ、悲しげな目、力強く合わさった合掌などから、深い心からの懺悔(反省)と力強いほとけさまへの帰依(誓い)が感じられます。その目からは今にも反省の涙が零れ落ちそうですし、肘を強く張った合掌からは二度と間違いを起こさないという固い決意が見て取れます。 その後お釈迦さまの説法を聞いて、心から改心し、仏法の守護神である八部衆に加わることになるのです。 阿修羅像から私たちは多くを学ぶことが出来ます。ただ単に正義を振りかざすことなく、物事をおおらかに柔軟に観る心を、常に養う努力をしようではありませんか。
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