「住職の独り言」・・・・その136

 猛暑お見舞い申し上げます。

   関東地方の梅雨も、平年より一週間遅れでようやく開け、いよいよ夏本番といったところでしょうか。西日本では、梅雨の終わりごろに各地で記録的な大雨となり、梅雨が明けたと思ったら、連日の猛暑。北海道でも連日の大雨。日本列島も年々人が住みにくくなっております。
 加えて、世界各地で勃発しているテロによる無差別殺人。国内でも、無抵抗な弱者を狙った通り魔殺人、大量殺人etc. 何にもまして重いはずの生命が、こんなにも軽く簡単に奪われてしまっている現代。ここまでくると、「明日は我が身」と思い毎日を過ごさなければなりません。これは大変悲しいことです。自分以外(家族をも含めて)の人が信じられなくなってしまいます。こうなっては、もはや人間社会はなりたたず、人類の滅亡へと突き進んでしまうのではないでしょうか。
 人が人らしく生きていくのに何が必要なのか、何をせねばならないのか。私たち一人ひとりに課せられた重い重い課題だと思います。

 さて、8月は夏休み、お盆休暇の時期です。7月あるいは8月のお盆は普段疎遠になっているご先祖様に対して、感謝をする絶好の機会です。
 人間とはまことに勝手なもので、自分が幸福なときにはけっこう他人にもやさしい態度で接したり、思いやりの心を抱いたりするものですが、自分が不幸になってしまうと、他人の幸福をねたみ、思いやりの心などかけらもなくなってしまうものです。

 ところが、これが「わが子」ということになると別なのです。それは、いくら自分が不幸な状態の中にあっても、少しでも子供が幸せになるように願い、幸せになったことをわがことのように喜ぶのです。
同じように、「わが子」が不幸になると、自分がどのような状態であろうと、一緒になって苦しみ嘆くのです。

 「慈悲」という言葉は、よくひとつの熟語として用いられていますが、実は、慈と悲とはまったく違う内容を意味している言葉なのです。
経典では、「慈は与楽、悲は抜苦」と説明してありますが、慈というのは、「相手に喜びや楽しみを与えること」であり、悲というのは「相手の苦しみや悲しみを取り去ってあげる」ということなのです。
 現代のように、男女同権が社会の隅々までゆきわたり、男性に育児休暇まで与えられるようになってくると、はたして父と母の役割をきっちりと分けることが適当かどうかは別問題ですが、いまのところ、子供を生むのは母親ですから、ある程度は両者の違いを認めてもよいのではないでしょうか。

 すなわち、父の恩というのは、喜びや楽しみを与えてくれた恩としての慈恩であり、母の恩というのは、苦しみや悲しみを取り去ってくれた悲恩、ということになるのです。
 よく言われる言葉に、「分かち合う喜びは二倍にも三倍にもなり、分かち合う苦しみは、二分の一にも三分の一にもなる」というのがありますが、たしかに、いっしょになって喜んでくれる人が多ければ多いほど、その喜びや楽しみは増加しますし、同じように、いっしょになって苦しんでくれる人が多ければ多いほど、苦しみや悲しみは半減するのです。ところが、前述のように、他人の場合は、自分の状態によって態度が変わりますからたとえ口ではどんなにうまいことを言っていても、本心ではないわけですから、ことらの心は動かないのです。
 たとえば、自分の子供の友人が大学に合格したような場合、口では、「この度は本当におめでとうございました。お宅のお子さまなら、あの大学に合格されるのは当然だと思いますよ。もともと頭がよろしいし、よく勉強されているようだから」と言っていても、同じ大学を受けた自分の子供も合格しているなら必ずしも嘘ではないかも知れませんが、もし自分の子供だけが落ちているような時には、心の中で、「まったくおかしな話だよな。うちの子のほうがはるかに頭が良いはずなのに。あの子が一度で受かるはずがないよ。きっと裏口から相当なお金を積んだのではないだろうか」などと考えているかも知れないのです。

 ところで、仏教において説かれる「仏陀」の特徴のひとつが、この「慈」と「悲」なのですが、普通の人間の親とは違って、対象が特定なものだけでないところから「大慈悲」とよばれています。
 それは、悟りを開いて仏陀となったものは、すべての人間はもちろんのこと、生きとし生けるものに対して平等に慈と悲とをかけている、ということなのです。
 そして、この慈と悲を象徴する存在として考えられたのが観音菩薩であり、この菩薩に対する信仰が、日本の歴史を通して広く一般の大衆の間に浸透していったのです。
 このような仏陀や菩薩の大慈悲に比較すると、人間の親の場合は、自分の子供たちだけに対するものですから、まことに小さなものと言わざるをえないのです。

 しかしながら、たとえどんなに小さなものであろうと、きわめて純粋なものですから、子供たちにとってみれば、まことにありがたいものなのです。だからこそ日本では、第二次世界大戦終了までは、「親の恩は海より深く、山よりも高い」とか、「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深い」といったことわざが存在していたのです。
 まことに残念なことには、現在の日本社会においては、「親の恩」などといったものは完全に死語となってしまったために、「親の恩? 冗談じゃないや、だれも頼んで生んでもらったわけじゃないし、どうせ生んでくれるなら、もっとましに生んでくれたらよかったのに」などとうそぶく子供が、決して稀ではなくなってしまったのです。
 たしかに、我々人間の誰もが、自らの意志によってこの世にうまれてきたわけではないし、現在のような状態でうまれてきたのを、そのまま受け入れて満足しているわけでもないでしょう。
 しかしながら、この世に人間として生まれる、ということが、きわめて稀有なことであると気が付いたとき、それまでの発想とは違って、「頼みもしないのに、ようこそ生んでくださった」と考えることができるのではないでしょうか。
 そのように考えてくれば、たとえ現在では慈と悲とが必ずしも父母によって明確に分かれていないように見えますけども、まとめて「慈悲の父母」に対する感謝の念を持つことができるならば、恩という観念も、徐々に我が国の社会の中に定着してゆくのではないでしょうか。
合掌
父に慈恩あり、母に悲恩あり
平成28年8月1日





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