住職の独り言」・・・・その138

 こんにちは。
秋雨前線が長逗留し、台風の上陸・接近も多く、全国各地で自然災害・農作物の被害etc. 当たり前の生活が出来ない状況におかれている方々には、心よりお見舞い申し上げます。
 秋のお彼岸中、お檀家さんをお参りさせて頂いた折にも、挨拶は決まって、雨の多いこと、お米の収穫の心配でした。10月に入り、スカッとした秋晴れを望むばかりです。

 今月は、日本天台宗にあって、大きな功績を残されたのに一般的に知られていない、別当大師光定さまについてお話させていただきたいと思います。
 天台宗の草創期にまとめられた書物に『伝述一心戒文』という重要な一書があります。これには、比叡山に天台独自の大乗戒壇が開かれるに至るまでの経緯が詳しく記されています。大乗戒壇の建立実現は伝教大師さまの悲願でした。本書はその実現に至るまでの経緯に関するさまざまな記録を編集して一書にまとめたもので、その過程をよく知る光定さまの手によってなされたものでした。

 その光定さまは宝亀10年(779)の生まれで、弟子の円豊さま等が記録した『延暦寺故内供奉和上行状』という光定さまの伝記によりますと、予州風早県の人とされます。この地は現在では愛媛県松山市の北条地区になります。俗姓は贄氏といい、大和の豪族葛城氏の末流で、地元伊予の名門の生まれ、母も地元の名家風早氏の出自と伝えられます。20歳の頃、相次いで父母を失った光定さまは俗世の生活を離れて山野で修行生活を送るようになりました。これは母が光定さまを身ごもった時に腹中に白蓮華が咲く夢を見たので、「将来あなたは必ず出家するだろう」と伝えたことと関係があると伝記は伝えています。

 その後、大同年間(806~810)初めに勤覚という僧に勧められて京都に上り、同3年の30歳の時に比叡山に登って伝教大師さまの弟子となりました。同じ年に登叡して伝教大師さまの弟子となった円仁さまは15歳でしたから、光定さまは年齢的にずいぶん遅く弟子になった人といえましょう。しかし伝教大師は他の若い弟子たち同様、光定さまを慈しみ育てられましたので、光定さまの伝教大師さまへの思慕の念は人一倍強いものがありました。それは伝教大師さまの教えに忠実にしたがって一心に修学に励み、お大師さまの悲願であった大乗戒壇建立の実現に向けて、献身的な努力を捧げていることからもうかがうことができます。

 遅ればせながら32歳で国家公認の正式な僧侶となった光定さまは、伝教大師さまのもとで修学に専心しますが、その2年後には奈良に赴き東大寺の景深律師さまなどのもとで戒律を学んだ後、伝教大師さまに従って興福寺の維摩会に列席、乙訓寺に弘法大師空海さまを訪ね、高雄で伝教大師さまや同門の弟子の円澄さま、泰範さまと共に胎蔵界の灌頂を受けました。光定さまはその後も伝教大師さまの指示で空海さまの下に残り、密教を学んだのでした。さらに36歳の時には伝教大師さまと共に奈良の興福寺に行き、法相宗の硯学の義延律師さまと対論をしてこれに勝ち、天台の教えが法相を凌ぐことを証明して高名を得たのでした。翌年には勅命によって嵯峨天皇の御前で興福寺の真苑さまと仏教上の教理について対論をしてこれに勝ち、天台の教えの優秀さを明らかにしたのでした。こうしてこれ以後、たびたび宮中の法会に召されるようになったのでした。

 また光定さまはとても文才のある人であり、嵯峨天皇の寵愛を受けてその詩宴にたびたび招かれたのでした。嵯峨天皇は書で三筆の一人としてつとに有名ですが、後の弘仁14年(823)に比叡山で初めて大乗戒の授戒が行われた時、義真さまから光定さまが授戒したその戒牒は嵯峨天皇が自ら書して光定さまに賜ったもので、これが最も確実な天皇の筆跡の一つとして現存しています。
 こうした宮中との深い関係は、比叡山に新しく大乗戒壇を設けるに際して大いに力になってのでした。光定さまは伝教大師さまの意を汲んで折衝役としてその実現に奔走し、大きな役割を果たしたのでした。

 ところで先に天台独自の戒壇と申しましたが、当時は天下の三戒壇といって、奈良の東大寺、筑紫(現、福岡県)の観世音寺、下野(現、栃木県)の薬師寺にだけ戒壇が設けられていました。これらの戒壇は国家の管轄下にあり、しかもここで授けられる戒律は上座部の戒でした。伝教大師さまは『法華経』の精神に基づく天台独自の大乗戒を授ける戒壇を比叡山に建立することを願ったのです。大乗戒は菩薩戒とも円頓戒ともいいますが、「生依法華、傍依梵網」、つまり精神は『法華経』にのっとり、具体的な条目は『梵網経』に説かれる梵網戒に基づく戒です。これは上座部戒のように出家と在家を区別することなく、僧俗共に通受できる戒で、仏性を自覚することによって皆がすべて仏になることができると説くものです。この戒こそ受けるべきという考え方は、当時の日本にあってはまったく新しいものであったといえましょう。

 光定さまは天安2年(858)に80歳で入滅されましたが、滅後に別当大師と称されるようになりました。これは仁寿4年(854)に延暦寺別当という長官にあたる役に任命されたことに由来します。その光定さまの墓所の別当大師廟は、敬慕してやまなかった伝教大師さまの御廟(浄土院)の東隣り(香炉岳)に寄り添うように建てられ、現在も光定さまの末裔とされる公人の人々によって護持されています。また、これとは別に、現在、東坂本の生源寺に別当大師堂があり、そこには光定さまの画像が祀られています。さらに地元出身の高僧として敬仰する天台宗四国教区の人々が発願して造顕した尊像が、新たに平成17年にここに奉納されております。






合掌九拝
「別当大師光定(こうじょう)さま」

平成28年10月1日
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