住職の独り言」・・・・その145

 みなさまお元気ですか?
北日本方面にも、春が到達しているようですね。当地方では、春を感じさせてくれるものが、例年より遅れているようですが、それでもきちんとそれぞれに、季節感を感じさせてくれています。
新年度が始まり、はや一カ月がすぎ、人生の節目、新たなスタートを切った方も多いと思います。
 スムーズにスタートした方、少し手間取っている方、色々あると思いますが、まだスタートしたばかり、あせることはありません。それより、大地にしっかり足をつけて、一歩一歩を確実に進めていくことが大切だと思います。

恩という言葉について考えてみると、すぐに頭に浮かぶものとして「恩知らず」「恩を着せる」「恩を売る」といったものがあります。
また「恩を知る」という素晴らしい言葉もあります。恩という語はインドの言葉で「恵み」といういみです。また「なされた」とも言われます。自分のためになされたさまざまなことに対する感謝という意味になるでしょうか。
いまでは恩という言葉があまり用いられなくなってきていますが、本来は素晴らしい言葉であり、世界でもあると思います。自分がここにあるということは無数の縁によって成り立っており、そのことに気づいたとき、感謝の心が生まれます。一人で生きていると考えているかぎりその心は生まれません。
これが知恩ということです。仏の恩、師の恩、父母の恩、衆生(いのちあるもの)の恩といったように、仏法にはさまざまな恩が説かれています。特に仏法には三宝の恩といったものがあります。三宝とは仏(覚者)、法(教え)僧(共同体、教えによって結ばれたよき仲間)の三つである。
三帰依(三つの依り処)というものがあるように、仏法の最も大切なものは仏法僧の三つです。自ら仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依することを仏法の始まりと終わりにします。
言葉を変えて言えばこの三つ以外を人生、命の依り処(根拠)とはしないということになると思います。金銭、財産、社会的地位、また子、孫といった係累などを命の支えとはしないということです。 いや、それらは私たちの人生の根本課題である「老病死」を支えるものとはならないという教えなのです。仏法に入門する儀式の中で、必ずこの三帰依文をお唱えします。また、朝晩のお勤めの中でも、この三帰依文をとなえます。
お釈迦様が「仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依し、他を依り処してはならない」と説いたことは広く知られています。ここの「他」あるのが、先ほど言った自分を取り巻く金銭、学歴等々のことであることは言うまでもありません。
 仏宝とは、あらゆることを知る真実の智慧を具えていて、生きとし生けるものに正しい道を示す仏である。法宝とは、思いはかることのできない功徳を具えていて、これを保つものに世間の安らぎと出世間の安らぎを与えるところの教えである。僧とは求道者とか教えを聞く者とか、凡夫とか聖者とか(中略)の区別なく、経典や論釈を学んで、人々に真実の智慧を与える人たちで、これを僧宝という。
  (『性霊集』)
この三つの宝に恵まれた時、そこに感謝が生まれ、喜びが生まれ、それが恩を知るということです。
如来大悲の恩德は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩德も
骨を砕きても謝すべし
(阿弥陀如来のご恩は身を粉にしても報いていきたい。
また、この報いを自分に届けてくださる方々のご恩も骨を砕いても尽くしていきたいものである)
  親鸞聖人「恩德讃」より
 さて、知恩について少しお話してきましたが、次に報徳について考えてみましょう。私たちは喜びに出会うと、それを人に聞いてもらいたくなり、じっとしていられなくこともあります。ある詩人が「感動という字は感じて動くと書くんだなあ」と書いています。感じるだけで動きを伴わないものは感動ではない、ということでしょう。
 確かに、「じっとしていられない」という時があります。私の身近にも、熱心に仏法を聞いている人がいます。そういう人はじっとしていられずに、周りの人に自分が聞き得たこと、学んだこと、その法に出会ったことの喜びを話すのです。
 僧侶が話をするよりも、その人の話は相手の心を打つようです。それは、伝えよう(伝道)としているのではなく、自らの喜びを述べているからでしょう。そんな世界があるのか、自分もその喜びにあってみたいという人を生み出すのです。
 憎しみは憎しみを生み、喜びは喜びを生む。知徳報徳とは恵まれた法に有り難う、と言い(知恩)その恵みを自分の心の内だけのことにせず、他に施す(報徳)布施行のことなのです。
出典「教行信証」

合掌
「知徳報恩」

平成29年5月1日



戻る