住職の独り言」・・・・その150

 皆様、こんにちは。紅葉に加え雪の便りが聞かれるようになりました。
今年の秋は、本当に天候不順ですね。気温の変化に、体調を崩されている方も多いようです。
くれぐれもご用心ください。

  有名なラテンの格言に「メメント・モリ」というものがあります。直訳すると「死をたえず忘れるな」ということだそうです。この言葉は何を言わんとしているのでしょうか。
 私たちは今生きているのであって、死はまだまだ先のこと、と思っています。本当にそうでしょうか。誰がそう決めたのでしょうか。いや、私たちの若さが漠然とそう考えさせたのにすぎないのです。
 私は若い、当分死なない。そうでしょうか。しかし、これほど不確実なものはありません。あらゆるものは時々刻々流れています。変わり続けています。これがお釈迦さまの示された永遠の真理です。
 無常には壊れていくという側面と、新たなるものが生まれるという別の側面もあります。もっとも一般的には「はかない命」というものが無常の本質であるという考えが支配的であることは否めません。
 お釈迦さまが「諸行は無常である。無常なるものはまた苦しみである」というのはこのことです。やはり、無常の本質は「もののあわれ」にあるといえそうです。

一方でお釈迦さまは、
 「人の世にいのちを受くることは難く、やがて死すべきものの、今いのちあるはあり難し」
ともおっしゃっていられます。「やがて死すべきもの」である私(無常)が今、厳然としてここにあることの素晴らしさを示しております。
 今、私は「死をたえず忘れるな」と言いました。それは、死を忘れた時生き方が軽くなるという意味です。つまり、死を考えるということは、同時に生を考えていることにほかならないということです。生と死を二つに分けて考えるのではなく、死によって生が明らかになり、生によって死の問題が浮上してくるということです。仏教が「生死一如」(生と死は紙の裏表である)といって、生と死を分断しないことの意味はここにあります。
 生を明らかにし、死を明らかにすることは仏教の学びの出発点であります。生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(『修証義』)という言葉があるくらいです。

 自分はどのようにして生きるべきか。そして死んでいくことができるか。そのことを明らかにすることが仏教の学びの出発であり、全体なのです。この生と死の中に当然、老も病も愛する者との別れや、いやな人との出会いも含まれてくるのです。
 つまり、仏教は命の全体を学ぶ学びなのです。以前のことですが、映画評論家に淀川長治さんという人がいました。母親を大切にした方で生涯独身を通されました。淀川さんの書かれた本で印象深く残っていることがあります。
 淀川さんはどこへ行く時も、どこで自分が死んでもいいように、そのお金だけは持ち歩いていたそうです。周りの人に迷惑をかけてはいけない、という信念からだそうです。淀川さんはいつどこで人生を終わるかわからない。だからいつもその心構えをしておかなければならない、というのが口癖だったそうです。つまり一日一生の思いで生きていたのでしょう。
 ある時友人の一人が、「お前のようにいつ死ぬかわからないなどといつも考えていたら暗くならないか。」と聞いたそうです。その時淀川さんは「いや、いつ終わるかもしれないと考えているから、仕事にも全力投球ができ、いい加減な生き方はできない、という思いが湧いてくる。毎日毎日が楽しく生きられる」と言ったそうです。
 さきのお釈迦さまの言葉「やがて死すべきものの、今ある命はあり難し」の世界を地で行くような生き方ではないでしょうか。そこにはさわやかさがあります。

 経典に、「貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない」とあります。  無常の世であるから悲しいことも起きます。しかし、そこにまた尊い発見も驚きもあります。その中で私たちは育てられていくのではないでしょうか。
 小生は前向きの無常観と後ろ向きの無常感というものがあると思います。観というのは正しい事実の認識です。感とは心情的な側面です。
 無常観とは無常なる現実を誤りなく認識する世界。無常感とはこわれゆくものを悲しみ嘆く心情、文芸評論家の亀井一郎氏は、これを「無常美観」「無常哀感」と表現しました。
 曹洞宗の青山俊董老師は「死を忘れると生がぼやけてくる」と言っておられます。それはそのまま、無常を忘れると生き方が軽薄になるということではないでしょうか。こわれものの命ですから、今ここにある命が尊いのです。
今回も、最後までお付き合いいただき、有難うございました。





合掌
「常に無常を忘れることなく」
平成29年11月1日


戻る