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住職の独り言」・・・・その151![]() 早いもので、今年もあと一カ月となりました。境内も秋の装いから冬へと、足早に移り変わっております。 昨年の12月、ここで中国に渡った天台宗のお坊さんを紹介しましたが、今年も一年の締め括に、あまり知られていない天台の名僧をご紹介いたします。 傳教大師さまや弘法大師さまが中国に渡られたのが、平安時代のはじめの頃ですが、中頃になっても、中国に渡る日本の僧たちはたくさんいました。その中に寂昭(寂照とも書く)という僧がいました。 大臣・納言につぐ重職の参議に任じられた大江斉光の子として生まれ寂昭さまの出家前の名前は、大江定基といいました。詩文にすぐれた文人としても知られていた定基さまは、三河守(現在の愛知県東部地方の長官)として現地に赴任しているときに最愛の妻に先立たれるという悲哀を味わいます。この世のはかなさを知ったことをきっかけに出家した定基さまは、寛和二年(986)に名を寂昭と改めて、寂心さまの弟子となりました。 寂心さまは出家前の名前を慶滋保胤といい、『日本往生極楽記』や『池亭記』など、平安時代を代表する漢詩文の大家として高名な人です。その寂心さまは、後に天台僧となり、『往生要集』の作者として有名な恵心僧都源信さまの下で修行に励まれました。寂昭さまもまた源信の下で修行されると同時に、諸国を巡歴して三河聖と呼ばれるようになりました。 師の寂心さま亡き後の長保四年(1002)、寂昭さまは中国の仏教霊場として名高い五台山巡礼を思い立ち、朝廷に渡宋の許可を願い出ました。6月18日に都を出立することが決まると、それ以前に寂昭さまから受戒したいと願う多くの人々が身分の上下を問わずに寺に押しかけました。寂昭さまのような優れた僧が日本からいなくなることを人々は惜しんだのです。この寂昭さまが母の逆修のために法華八講を催した時のことを、『続本朝往生伝』は、「この日だけで500人の出家者がおり、女性などは自ら髪を切り、牛車から講師に差し出して受戒を求め、寺のまわりは聴聞の人々で垣をなし、読経や説教に皆涙を流した」と記しています。 8月に九州を船出した寂昭さまは9月に明州(現在の寧波)に上陸します。そして翌年9月、源信さまから託された天台教学上の27の疑義「台教問目二十七条」を、宋代の天台の硯学、四明知礼さまに提示して答釈を求めたのです。知礼さまは寂昭さまに賓客として遇する一方、じっくり時間をかけて答釈を作りました。 ようやく答釈ができたので、これを持って帰国しようとしたところ、謁見した時に一目でその人格に惚れ込んでいた丞相(宰相と同意で、皇帝を助けて政治を行う最高官)の丁晋公さまから懇願されて宋地に留まることになり、答釈は丁晋公さまの臣下の者が日本に届けることになりました。こうして寂昭さまは、丁晋公さまが姑蘇(蘇州)に建てた呉門寺に住むことになったのです。 当時の宋朝は、積極的な対外政策をすすめていましたが、日本とは正式な国交が途絶えていて情報が不足していました。そうした中にあって、寂昭さまは日本の国情を広く伝える役目も果たされていたようです。宋朝の正式な歴史書『宋史』の中には「日本国伝」という一項がありますが、ここには宋朝の楊億から受けた日本に関する質問に、寂昭さまが答えた内容が書かれているのです。ちなみに楊億は、寂昭さまを「仏教はもちろん、その他の学問にも広く通じた人物である」と評しています。その寂昭さまは、自分の中国巡礼記の『来唐日記』を遺しましたが、散逸して現存していないのは残念なことです。 その後、皇帝の真宋に拝謁した寂昭さまは重用され、蘇州の僧録司(僧官の長)に任命されました。蘇州の近辺は、盛んに法華懺法などが修される天台系の寺院が多数ありました。そうした中にあって、寂昭さまが報恩寺内に普門院という一つの堂を建立して修行をはじめると、そこから人々の信仰の輪が広がって皇帝も注目するところとなって、やがてこの寺は多くの堂塔を擁する広大な寺院となり、報恩寺と甍を並べるようになったのです。30数年後にここを訪れた日本天台僧の成尋さまは、普門院の偉容に驚き、その中の円通大師影堂で寂昭さまの画像を拝した時の感慨を「悲涙感喜」と記しています。 寂昭さまついに帰国することなく、宋の景祐元年(1034)に73歳でその生涯を閉じられ、皇帝から円通大師の大師号を賜与されました。ゆかりの普門院は寂昭さまが創建時、報恩寺内の一堂でした。その報恩寺の北寺塔(旧称 報恩寺塔)が現存しています。塔そのものは南宋の紹興年間(1131〜62)に再建されたものですが、水の都として知られる名勝の蘇州を訪れる時には、寂昭さまを偲んで北寺塔を訪れたいものです。
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