住職の独り言」・・・・その16

 北の国からは、早や冬の使者到来のニュースも聞かれるようになってきました。当地を流れる荒川流域の隣に川本町という町があります。ここには毎年冬になると小白鳥が越冬のためやってまいります。普段比較的静かな町も、白鳥達がいる間は見物に来る人で、かなりの賑わいになるそうです。(小生はまだ一度も見に行ったことがございません…)

 さて、11月というと天台宗にとって、絶対に忘れる事の出来ない大切な方のご命日がやってまいります。 中国天台宗の祖、天台(てんだい)大師(だいし)(ちぎ)禅師(ぜんじ)であります。

中国南北朝時代 (りょう)武帝(ぶてい)四年(538)に現在の湖南(こなん)(しょう)華容県(かようけん)で誕生された、コ安(とくあん)という少年が後の天台大師智禅師であります。7歳にして近所の寺でたった一度耳にした「観音経」を覚えてしまったといわれます。

 しかし、梁の国が滅び一家は流浪してしまい、その間にコ安少年は両親と死別してしまい、長兄の許しを得て仏道修行を志します。()願寺(がんじ)法緒(ほうちょ)さまを師として得度し、慧曠(えこう)律師(りつし)について250条の戒を受け僧侶の仲間入りをいたしました。
 大賢山(たいけんざん)で修行の後、さらに師をもとめて、光州(こうしゅう)大蘇山(だいそざん)慧思(えし)禅師(ぜんじ)を尋ねると慧思禅師は出会ったとたんに「あなたとは、昔、釈尊が(りょう)鷲山(じゅせん)で『法華経』を説かれた折、いっしょに聴聞しました。おなつかしい」と言われたそうです。

ここで天台大師さまは、この慧思禅師を師と仰ぎ、『法華経』の真髄を求めて修行に励みました。

『法華経』薬王(やくおう)菩薩(ぼさつ)本にある、薬王菩薩が前世に自らの身体に火を放ち、日月(にちがつ)淨明(じょうみょう)(とく)如来(にょらい)に灯明としてみずからをご供養した、という壮絶な焼身供養の文にいたって天台大師さまは悟られたといいます。仏教とは頭だけで理解するものではなく、全身、全人格をもってその理想を体現するべきである、ということなのです。

慧思禅師に、自分の後継者であると認めていただき、(ちん)の都である金陵(きんりょう)(現在の南京)に出られた天台大師さまには皇帝や官僚、学僧たちがみな帰依し、毎日布教に忙殺されるようになりました。そして、一転して自らの修行を深めようと、浙江省(せっこうしょう)の天台山の山中華頂峰(かちょうほう)というところで座禅修行に入られ、お釈迦さまの修行にも劣らないような激しい体験をされ、悟りを深められました。

やがて、陳は(ずい)によって亡ぼされてしまいますが、隨の晋王(しんおう)(のちの煬帝(ようだい))は天台大師を深く敬慕し、自らも菩薩戒を受け、そして天台大師に「智者(ちしゃ)」の尊称をささげました。

晋王の求めに応じて、しばしば天台山と都を往復しているうちに、天台大師さま体調を崩され、閠皇17年11月24日、都への道中・石城寺で60歳の生涯を閉じられました。

天台大師さまの名は、天台山に由来し、そのお名前から「天台宗」の名が起こりました。

天台大師さまは、『法華経』に仏教の真髄を見いだされ、なぜ仏教が説かれ、仏教はどのようにくみたてられているのか、どのように人々を教え導こうとしているのかを、系統づけし、あきらかにされたのです。

天台大師さまの仏教のとらえ方の特徴は、そのご生涯にみられるように学問と修行、理論と実践の両面を具えることにあり、故に天台大師さまの仏教は、生きた仏教のとらえ方だといえるのです。

天台大師さまにはじまる天台宗を、日本に持ち帰られたのが伝教大師最澄さまで、「宗祖(しゅうそ)」といい、天台大師さまを「高祖(こうそ)」と尊称しています。

日本天台宗の寺院では、11月24日天台大師さま入滅の日に、「霜月会(しもつきえ)」と称して報恩謝得の念を表す法要を行っております。

今月は、日本天台宗の祖父にあたる、天台大師智禅師についておしゃべりしてみました。いかがでしたでしょうか。こうしてパソコンの前に座っていても、足が冷たくなって参りました。

秋の夜長、読書などなされるのも良いものですが、くれぐれも暖かくして風邪などひかれませんようご自愛のほどお祈り申し上げます。
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