![]() ♭ ♪ 今月は何を歌うか楽しみ(?)にされていた方はおりませんか。 残念ながらもう歌いません。全部出してしまうのはもったいないから小出しにします。(じつはネタ切れ…) 6月といえば「梅雨」を連想される方が多いとおもいます。ジメジメしていやなイメージですよネ。「雨降って地固まる」「ジュンブライドは幸せになる」など良い意味の言葉もありますが、やはりイメージ的にはあまり良くない季節です。 がしかし、「梅雨」が無ければこまります。農家の方は稲が育たず、お米が収穫できなければ生活できません。消費者も毎日の生活に水は必需品ですから。このように、この世の中に必要でない物は何もないのです。必要のない人間もいないのです。本当に必要とされなくなれば、ちゃんと仏さまが迎えに来てくれますから安心して待っていてください。 いまさら言うまでも無く、常光院は天台宗に属するお寺です。でありますから当然お檀家さんは天台宗の教えのもとに仏教徒としての生活を送るということになります。 しかし、現在日本で仏教徒である立場にある人で、どのくらいの人が「自分は仏教徒である」と認識し、毎日生活しているでしょう。決して多い数字ではないとおもいます。 まず仏教徒としての生活とは何ぞや…?というところからの段階ではないでしょうか。 そこで仏教徒としての生活とはどんな生活なのでしょう。お坊さんには、男子二百五十戒、女子三百五十戒もの戒律がありますが、これは小乗仏教で重視する戒律であり、中国や日本のような大乗仏教の国では、梵網経というお経に説かれている十重四十八軽戒、十の重い戒律と四十八の軽い戒律によって修行の規範としているのです。 皆さんのような在家の檀信徒の方々にも同じように五戒というものがあり、これをお寺さんで授かり毎日の生活の中で実践するのが本来の仏教徒の姿なのです。 この五つとは、 不殺生戒 (生きものを殺してはいけません) 不偸盗戒 (他の人の物を盗んではいけません) 不邪淫戒 (よこしまな男女の関係はいけません) 不妄語戒 (嘘をついてはいけません) 不飲酒戒 (酒を飲んではいけません) であります。 このように、お坊さんはもとより、仏教徒になったすべての人には、戒律が存在するのです。 しかし、戒律とは国で定める法律のように、私たちを外から束縛するものではなく、むしろ私たちの心の中にある善いことをしようとする自発的な精神であります。自分自身で誓って必ず守ろうとする、心の中からわき出る決意「持戒」なのです。 ところが、一大決心をして仏さまの前でこのような五戒を誓っても、これを守ることは非常に困難なことです。守りたいと思っても、私たちの日常生活においては、その通りにはできないもので、思いながらもそれを破らざるを得ない毎日です。たとえば不殺生戒にしましても、知らず知らずのうちに道に這っているアリを踏んでしまうことや、ハエや蚊も殺さずに生活するには、相当の忍耐が必要でしょう。不妄語戒にしましても、末期ガンの患者さんに対する告知の問題を考えれば、お解りのこととおもいます。 このように、やむを得ず殺してしまったり、ウソをついてしまうのですが、これが破戒です。すなわち戒を守ろうと誓いを立てた人のみ破戒があるわけです。誓いを立てなかった人には意味のない言葉ではあります。しかしながら戒を守ろうとする人は、不必要な殺生は思いとどまることができるのでして、ここに大きな差が出てくるのです。必要最小限度の破戒であります。 ともかく戒を守ろうとすると破戒は避けられないものなのです。そこで「懺悔」が必要になってくるのです。「懺悔」とは自分の犯した罪を他人の前で告白することであります。「懺悔」することによって犯した罪は浄らかになります。ただし、いくら「懺悔」たからといって、ゆるされない重罪もあれば、一番軽い罪などは、自分の心の中で「懺悔」」すれば許される戒もあります。 天台大師智禅師は『法華三昧懺儀』を著わし、自ら意識するとしないにかかわらず、犯した罪過を全身全霊で悔い改め、諸仏にすべてを発露(告白)し、その許しを得て心身清浄になる懺悔法を確立しましたが、これが天台宗で行われている行法の基礎となっているものです。 その一方で、戒を持たない人には「懺悔」もないということになりますので、従って罪の意識も無ければ反省もないということになってしまいます。ここから他人との諍いが生れ、果てには戦争などということにもなりかねません。 このようなことにならないためにも、私たちは仏教徒として、常に「持戒」(戒を持つ)し、そして「懺悔」(心からの反省)をすることによって、心身清浄な毎日の生活をおくりましょう。完全なる人間など、この世の中には存在しません。完全でないからこそ一生修行を続けてゆくのです。 私たち人間は非常に弱い動物であることを自覚し、拠り所となる戒を「持戒」し、「懺悔」を心がけ、一歩一歩[ほとけ]に近づく努力をすること。これが仏教徒の生活ということだとおもいます。 最後までのご清聴、有り難うございます。 謝謝 |
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