「住職の独り言」・・・・その29


 みなさまおげんきでっしゃろか・・・?

早いもので、もう今年も一ヶ月が過ぎてしまい、年の瀬の慌ただしさ、新年の浮かれ気分で騒いでいたのが昨日のように感じられております。時間が経過するのが益々早くなってしまい、小生もいよいよ下り坂を降りだしたなア と日々実感する毎日を過ごしております。

 さて、この頃では余り使われなくなってしまった言葉ですが、私たちが間違いをしてしまった時などに、「南無三、しまった。」という言い方をします。最近では時代劇でもほとんど聞くことがありませんが・・・ この南無三とは即ち「南無三宝」のことで、三宝という言葉が日常語にとけ込んだ例です。また、日頃神棚や仏前にお供え物を置く道具の一つに「さんぼう」があります。これには三方の外に三宝の字が当てられます。おそらく神仏に捧げる尊い物をのせるので、このような名前がつけられたものと思われます。
 このように私たちの生活に溶け込んだ、この「三宝」とは一体何のことなのか、今月はこれについてしゃっべてみたいと思っております。
 「三宝」とは、私たち仏教徒にとっては最も大切な三つの宝物。仏と法と僧のことなのです。私たち仏教とは、その入門の儀式の中で「三宝に帰依します。」と誓います。「帰依する」というのは、おすがりしますということで、私たちの生涯のよりどころとして三宝におすがりすることを仏様にお誓いするのです。私たちはとかく地位・名誉・財産などがこの世のよりどころであり、頼りになるものと考えてしまいがちです。これらは人生に大事なものであるかもしれませんが、地位や身分はその時々で変わってしまうものですし、財産にしても絶対的なものだとはいえません。
 それに対してお釈迦さまは、仏法僧の三宝は人間が永遠にたよりにすべきものであり、真にたよりになるものはこの他にはないとお教えになりました。このうちの仏宝とは、真理の法を覚った人、即ち仏陀、仏さまのことです。仏陀は歴史上ではお釈迦さまお一人ですが、しかし仏陀はお釈迦さま一人ではなく、真理を体現した人はみな仏と考えるのが仏教です。それは宇宙そのものが仏であると考えるからです。この仏によって覚られた法は、永遠に変わることのない、そして万物にゆきわたっている真理そのものなのです。すべてのものは、この真理をはずれて存在することはできません。私たちがこうして生きていられるのも大自然のおかげです。
 私たちは空気中の酸素を吸って生きていますが、この空気とて人間が作り出したものではありませんし、また生まれた時、空気を吸えば生きていけると考えて吸った人はいないでしょう。すべて自然の法則の中でおのずから私たちは生き続けてきているのです。この自然の理法を法宝といいます。しかもこの世の万物ありとあらゆるものが、この自然の理法の中で調和を保つことによって、世の中が成り立つのです。この調和、和合の世界を僧宝といいます。僧とは僧伽(サンガ)で和合と訳されるからです。
 このように考えますと、仏法僧の三宝は別々のものではなく、一つのものであると考えられます。それは大自然の法そのものであり、それはこの世のすべてのものを生かしている力なのです。この万物をして万物たらしめている力、これを仏とよびます。三宝とは、言いかえれば仏そのものといえるものです。
 往々にして、人間は目にも見えず、ものも言わぬ仏さまなど、どうして頼れるかと思いがちですが、むしろそう考えるのは無理のないことかもしれません。特に近代社会においては、ハイテク技術の発達によって、今まで考えられなかった物まで作り出してしまうこの世に住んでいる私たちは、ともすれば大自然の理法を無視して、人智の限りをつくそうとします。しかし、それに比例して自然破壊の恐ろしさが強調されてきていることも見逃してはいけません。
 現代のように、人の心が荒れた時代だからこそ私たちは、仏教の正しい信仰を身につけて、仏さまに対する認識を確かなものにすべき時なのです。私たちは、日々手を合わせ仏を念じていますと、この世の矛盾にみちたすがたが見えてくるにつれて、自分の心の中にしっかりとお迎えされた仏さまこそ、この世で最もたよるべきものであることに気づきます。日々の精進、信仰をつづけることによって、いろいろ不思議なご縁にもめぐり合えて、これは自分一人の力ではないということを感じることが出来るようになります。その時あなたは、三宝に帰依することがこの世で最も尊く、ありがたいことだということを、身をもって感じることが出来るでしょう。世界中の人々が、一日も早くそう感じられるようになることを願っております。

合掌九拝
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