「住職の独り言」・・・・その40

 みなさまお元気ですか? 境内の木々は日一日と、その緑を大きく広げております。しかし、ツツジなどの花々は例年より少し遅れているようです。

 さて、以前お話したとおり、今年は天台宗が開宗(国家から正式に承認される)して1200年の慶讃の年に当たります。ご存知のとおり伝教大師最澄さまが比叡山に入られ、苦難の末、奈良の南都六宗とは別に天台法華宗として正式認可を受けられたのです。

 その名の示すとおり、天台宗はそれまでの南都六宗とは違って、法華経を根本経典とした宗派です。この法華経を初めて日本にもたらしたのは聖徳太子と言われております。聖徳太子はまた、日本の国は、大乗相応の国だとされました。

 聖徳太子のこころざしを、ひそかに受けつごうとされたのは、ほかならぬ、伝教大師最澄さまでした。弘仁七年(八一六)、大阪の四天王寺に詣られた伝教大師は、聖徳太子への深い帰依を表明されて、「師の教えを窮まり無からしめん」との詩をささげました。

 奇しくも、聖徳太子は、実は中国の高祖天台大師智禅師のお師僧さまにあたる、南岳慧師禅師の生まれかわりだという伝説が、中国にも、そして日本にもいい伝えられていました。

 伝教大師が、延暦四年(七八五)の七月に比叡山にわけ入られてすぐ、仏教に生きるものとして、決然とした誓いのことば、『願文』を書かれました。『願文』をみると、伝教大師はみずから、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」と称しておられます。「塵禿の有情」とは、塵あくたのような禿頭の良きものというほどの意味でしょうか。なぜこれほどまでに自らをさげすまなければいけないのでしょうか。

 伝教大師がよりどころとされた、天台大師の『天台小止観』に、戒律が保てるかどうかで、上、中、下の三段階に仏道修行をわけています。そして、下品の修行者は、もはやすでに、小乗仏教では罪を回復することができない、大乗仏教にすがるしかないと書いてあります。

 伝教大師は、聖徳太子に帰依の詩をささげた弘仁七年に、また、「大日本国、円機すでに熟す」とおおせられています。「円機」というのは、『法華経』という円満無欠な教えにふさわしい機根ということです。機根というのは、根性能力といったところでしょうか。

 伝教大師は、日本の国は、いまやお釈迦さまの時代をはるかにへだたり、すでに大乗仏教の精髄である『法華経』によらなければ救われない、と自覚されたのです。

 『願文』の愚といい狂といい、塵禿といい、底下といい、一般論ではなく、伝教大師ご自身が、最低な人間であるという自覚に立って仏道修行のスタートを切られたのです。その教えに浴するわたくしたちにとって、それはどんなにありがたいことであるかしれません。

 伝教大師の髪を剃ってくださった、得度の師、近江国分寺の住職である行表さまは、また、若き伝教大師に、「心を一乗に帰すべし」とさとされたといいます。行表さまのこのことばも、一乗すなわち、誰でも仏さまになれるという教えを学びとり、日本に広めなさいという示唆さのでしょう。

 人間は、みずから誇ることなく、謙虚に下品と自覚して、より多くの努力をみずからに課するとき、いたずらに高慢をふりかざして、努力を怠ったものをさしおいて、よりすばらし成果をかちとることができるにちがいありません。

 伝教大師も、当時の並みいるお坊さまたちが、お釈迦さまの直弟子たちが守っていたむずかしい戒律を、ただ形式的にたもっていこうとする姿に、その修行の実り少ないことを見抜かれたのでした。そして、そうした小乗の生き方が、ただ自分ひとりの修行の完成だけをめざしていて、われひとともに高まり、修行を完成し、仏さまになれる保障を得た、菩薩になり、仏さまの国、浄土をこの世ながらつくり上げるという大きな理想に縁がないこともみてとったのです。

 伝教大師はこうして、大乗そして一乗の教えを、『法華経』に見出し、天台大師の教えに出会ったのでした。

 ところが、ほんとうに『法華経』をよりどころとし、その、『法華経』の真髄を余すところなく明らかにされた天台大師の著書に出会うまでには、なみなみならぬ苦労があったのです。

 乏しい比叡山の財力では、まず、お経をすべてそろえることすら覚束なかったのです。伝教大師は、奈良の学友たちなどに呼びかけ、その援助を得、あるいは、はるか関東の北にあった、鑑真和上門下の道忠和上の好意によって、ようやく万巻の経巻をそろえることができたのです。もちろん、みずからも書写し、多くの助力によって写されてくる経典を、つぎつぎと読破して、大乗、一乗の経典『妙法蓮華経』(法華経)を見出したのです。

 そして、さまざまな中国の注釈書をたよりに、『法華経』こそ、お釈迦さまの、その一生をかけて本当にお説きになりたかった真実の教えであることを論証して、もっとよくその内容を解説し、その『法華経』の精神に立った仏道修行の方法を打ち立てた、高祖天台大師の著作を知ったのでした。

 天台大師の著書が読みたいと思うと、涙があふれてどうしようもなかったと、伝教大師は述懐しています。そして、それほどまでに待ちこがれた、天台大師の『法華玄義』『法華文句』『魔訶止観』の三大部をはじめ、かずかずの著作を、これまた鑑真和上のもたらした書物で読むことができたのです。

 お釈迦さまのめざしたところは、だれでも仏になれるという一乗の教えを広めることでした。人間の心のもちかたを分析して、だれかは仏さまになれるとかなれないと理屈をいう、奈良に伝わっていた仏教にはない、すがすがしい、力強い教えに出会うことができたのです。

 しかし、仏教は、書物を読むだけで体得できるものではありません。その教えを正統に受け継ぐ先生から、正しく要点を受け伝え、修行の手ほどきをしてもらわなくてはなりません。伝教大師はこうして、延暦二十二年(八〇三)四月遣唐使に加わり難波を出発、遭難して一年九州に留まり、翌年七月当時の唐へ向かったのでした。伝教大師を乗せた遣唐使の第二船は、明州(いまの寧波)に流れ着きました。行をともにした弘法大師空海さまと遣唐大使の第一船は、南の福建省へ着いたのでした。

 伝教大師はそこから天台大師のいらっしゃった天台山をめざしたのです。天台大師から数えて六代目になる荊渓大師湛然さまは、天台大師の三大部などにくわしい注釈をほどこして、天台大師の教えを、いっそう明らかにされました。伝教大師が天台山で出会って教えをうけたのは、その荊渓大師の直弟子にあたる、道邃さまと行満さまでした。

 道邃さまは、天台山麓の台州から、よく伝教大師をみちびき、天台大師などの著作の書写に協力され、『魔訶止観』などの要点や、大乗菩薩戒の奥義までも伝えてくださいました。行満さまは、天台山で、その持てる天台の教えをすべて伝教大師に伝えてくれました。

 こうして天台の教えをうけ伝えた伝教大師は、帰国の道すがら、越州(いまの紹興)に行き、順暁さまから密教の伝授を受けました。伝教大師は、この身のままで仏になれる(即身成仏)と説く密教は、天台法華の一乗の説に合致するものとして、これを伝えられたのでした。

 日本の延暦二十四年(八〇五)六月、伝教大師は対馬に帰着し、翌七月上京し、入唐して得た仏教を桓武天皇に報告しました。あたかも、桓武天皇は、その年の元旦の朝賀にも出席できないほど病気がちでしたので、まっさきに、日本にはじめて伝えられた密教に関心を持たれて、代理の僧に伝教大師から密教の入門儀式である灌頂を受けさせたばかりか、宮中でしばしば伝教大師にご祈祷を命じられたのでした。

 延暦二十五年(八〇六)正月三日、伝教大師は、他の宗に加えて天台法華宗を修行する僧侶の毎年の得度を許してくれるよう奏上し、二十六日には「太政官符」によって毎年二人の得度(年分度者)が認められたのでした。『法華経』がふさわしいこの国に、天台法華宗が誕生したのです。
文中の写真は、5月の境内のです。
合掌

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