「住職の独り言」・・・・その47
「今年の冬は暖冬です。」という気象予報士さんの長期予報が、今のところ良く当たっているようで、いまだに冬らしい寒さが来ませんね。だんだん歳を取り、坐骨神経痛の持病を抱えた拙者には有り難いことでありんす。
今年も早いもので、カレンダーが最後の一枚になってしまいました。
毎年のことではありますが、連日お正月の初詣の準備でてんやわんやしております。
さて、私達が生まれ、育ち、死ぬこの世を娑婆世界といいます。今、小生もあなたも娑婆世界にいるわけです。娑婆とは「たえしのぶ」という意味で、この世を堪忍土、あるいは忍土ともいいますが、耐え忍ばなければ生きていけないのがこの世の姿なのです。ですが、「耐え忍ぶだって、冗談じゃない。そんな消極的な生き方より自分の欲することの実現こそが、幸せというものだ」と思われる方もいるでしょう。ならば、江戸時代の戯れ歌を参考に欲望の充足と幸福について考えてみましょう。
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幸せは 弥生三月花の頃 |
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おまえ十九で わしゃ二十歳 |
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死なぬ子三人 親孝行 |
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使って減らぬ金百両 |
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死んでも命があるように |
無常の世にありながら、満足のいくいい状態だけが永続するのを願うのはいかに身勝手か。そして、幸福を追求すればするほど不満足も増えてしまうということでしょう。
『弥生三月花の頃』
暑からず、さりとて寒からず、肌に心地よい季節が弥生の頃。自然が最高に演出してくれた花咲き匂う時です。ですが、一年のうちには台風の荒れる日もあれば、雪も降ります。「華は愛惜にちり、草は棄嫌に生う」の言葉ではありませんが、そうそう人間の身勝手に季節を選ぶわけにはいきません。
『おまえ十九で わしゃ二十歳』
十九の春といったり、「鬼も十八、番茶も出花」というごとく女性が最も美しくなるのがこの年頃です。番茶は、お茶の葉のなかでも質の劣ったものを使いますが、それでも湯を注いだ時はいい香りがする。鬼のような器量でも十八になれば見所はあるという意味で、決して褒めた言葉ではありません。「娘さん、この頃きれいになったね。番茶も出花だね。」などと言わないように注意してください。余談はさて置き、十九、二十歳が若くて一番いい時だとはいっても、それを持続させることなぞできないのが世の定めです。でも、歳はとっても若くありたいと願うのは無理からぬことで、ゴルフ、テニス、水泳と体力持続に努めるのですが、中年ともなりますと、スタイルが儘ならず、「母親のテニス姿に目を背け」と子供に愛想づかしされかねません。また、女性であってみれば、肌の手入れもかかせません。がしかし、「化粧品 年々減りが早くなり」という現実に直面して、はたと考えます。老いることがいかに避けがたいものかしみじみ味わうのです。
『死なぬ子三人 親孝行』
親にとって自分が死ぬより子どもに先立たれるほど悲しいものはありません。ですから、「死なぬ子三人」は、親の切なる願望なのです。一姫二太郎が病気もせずにすくすくと元気に育つ。それが親にとっていかに喜びであるか申すまでもありません。(最近は元気に泣く子どもが、「うるさくて邪魔だ」と言っていとも簡単に殺してしまう、鬼のような不心得者もいるようですが・・・) ところが一喜一憂。元気な子どもが親不孝だったらどうしよう。心配は尽きることがありません。「親孝行であれ」と期待して子どもを育てますと、かえって子どもを駄目にしてしまうことだってあります。「親孝行したいときには親はなし」とは世間一般の子どもの心境で、「親孝行し尽くしたからさぞや親も満足だろう」と言い切れる子は果たして何人いるでしょうか。大体が「親孝行したくないのに親はおり」の口ではないでしょうか。したがって、「死なぬ子三人親孝行」というのは、親の一方的な願望なのです。
『使って減らぬ金百両』
こんなことが現実にあったなら、実に愉快に過ごせることでしょう。世の常として財産は多くあるに越したことはありません。しかし、その財産も使わないと効力を発揮しません。ただじっと持っているだけでは何の役にも立ちません。大金持ちがお金が減るのを恐れて、何も食べずに餓死したなんて話がありますが、使ってこそのお金です。ですが、使えば減り、減ればがっかりします。ですから、減らないように増やしつつ使いたいと思って努力するのでしょうが、苦労なくそうできたら、こんないいことはありません。「使って減らぬ金百両」というわけです。これは飽くなき所有欲以外のなにものでもありません。
『死んでも命があるように』
生きとし生ける者は必ず死にます。それは認めないわけにはいきません。ですから、一応は「死んでも」と死を認めるのです。しかし、自分の存在が消えてしまうなんてとても受け入れられない。自分だけはなんとか永らえたい。そこで「死んでも命があるように」と願うのです。
この戯れ歌は、私達が願う幸福は「所有欲の拡充」と「いい状態の持続」であると見て、それを無常の世の現実と対比してシニカルに歌っているのです。つまり、私達が生を受けている娑婆世界は、無常であり、だれしもが生老病死の四苦から逃れられない世界です。だからこそ、それを回避することなく、しっかり受け止めて堪え忍ぶよりほかはないのです。
生・老・病・死の四苦。この苦には「思い通りにならない」という意味があります。思い通りにしたいのにその通りにならない、そのジレンマが苦なのです。老いたくないのに歳を取り、病気なんかしたくないのに患い、死にたくないのに100%の確立で死が来ます。すべて思い通りにはなりません。
では、生はどうなのでしょうか。「生」を「生きる」と解釈して、「生きることは苦しみだ」と人生を意味付ける見方もありますが、そうではなく「生まれる」という意味に解すべきでしょう。生の中に老病死の要素が含まれている、だから苦なのだということです。さてそうしますと、私達は生まれるとすぐ思い通りにならない人生を歩むことになります。それは自己所有できるものがないからなのです。「これは私のものだ」という頼り甲斐になるものがあれば、なんでも思い通りにすることができるはずです。ところがそうはいきません。心地好い季節を願っても、季節は宇宙の支配下にあって自己所有ではありませんから、願うのは勝手ですが、思い通りにはなりません。子どもも親の所有ではあり得ません。しかも、この私という存在でさえ「これこそわたしのも」と思ってみても、自己を永遠に持ち続けることなどできません。
法句経に「なにものも『自分のものでない』と知ることが智慧である」とありますが、ものごとをありのままに見るならば、自分のものなど何もないのです。仮に縁あって存在しているのに過ぎないのです。これを無我といいます。また時間的に見るならば、永続するものはなく常に変化する、つまり無常なのです。無常無我がこの世のならいなのですから、わがものと思って固執したり、常にそうあってほしいと愛着する方がおかしいのです。となれば、見方を変えてありのままに見ることが大切なのです。
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傘ひとつ 片方は濡れる 時雨かな |
これは娑婆世界の歩き方を示唆した句です。天候は雨。なかなか止みそうにありません。旅の二人。別に二人と決まっているわけではなく、三人でも四人でもいいのですが、一応は二人としておきます。傘は一つしかありませんから、どうしても片方は濡れてしまいます。
さてそこで、傘をどのように差すかが問題なのです。
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一、 |
自分一人傘を差してすたこらさっさと行ってしま
う。置いて行かれた人はずぶ濡れになります。こ
れも片方は濡れるわけです。
(手前勝手型) |
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二、 |
相手に傘を全面的に差しかけます。これだ相手は
濡れませんが、自分はびしょ濡れになります。 (自己犠牲型)
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三、 |
傘を真ん中にして、寄り添うように差します。
俗にいう相合傘です。これも傘からお互いの外側
の袖がはみ出して、片方の袖は濡れます。
(相思相愛型) |
いろいろな差し方がありますが、どう差してみたとて、片方は濡れてしまいます。「傘が1本だから濡れるんだ。もっと沢山探してこいよ」と、当然思われるでしょうが、そうはいきません。ここは娑婆なのです。傘は1本しかないことを肝に命じておいて下さい。傘を2本にしよう、3本にしよう、満足のいくようにしようという発想は、老いをなくせ、死をなくせ、季節は三月花の頃だけにしろよいうのと同じく理不尽なことなのです。「傘は1本だ」と諦めねばなりません。娑婆世界は堪え忍ばなければ生きていられない世界というわけです。
ところで、「アキラメル」とは、「諦めること」と「明らめる」とが一体化して成り立っている言葉です。自己所有欲の拡充といい状態の永続を諦めて、ありのままに明らかに見ることです。きれいさっぱり諦められれば、堪え忍ぶことが満足感に変わるのです。傘1本で充分満足ですし、1本だからこそいたわり合いながら歩んでいけるのです。
「晴れてよし 雨もまたよし 路地の花」ということでしょうか。
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