「住職の独り言」・・・・その50
世界各地に異常気象を起す原因といわれている、東太平洋、南米沖のエルニーニョ現象も終息したそうですが、これからの気象がどうなるのか、まだ予断をゆるさないようです。 確かに、初夏のような気温だったり、真冬並みの寒気が降りてきたり、猫の目のように変わるお天気に、体が付いていけない人も多いようです。皆さん体調管理には充分気をつけて下さい。
願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我れ等と衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを
この文は、『法華経』の第七章「化城諭品」にあり、お釈迦さまが誕生されるよりも遙か昔の因縁話の中で述べられています。
昔、それも遙か遠い昔に、大通智勝如来という仏さまがおられ、永いあいだのたゆまぬ修行の結果、菩提樹下で悟りを開かれた。その時、世界はすみずみまで明るく照らされ、それは遠い世界の梵天の宮殿まで照り輝いた。諸天はこれをみて大いに驚き、不思議に思って、光明の出てくるところをたどってみると、大通智勝如来が菩提樹下に座しており、その周りには、如来出家以前にもうけた十六人の王子達がかこんでおり、如来に説法をお願いしているところであった。そこで諸天たちも皆集まって如来に華を献じて供養し、讃歎の詩を捧げて、如来の説法を請うのであり、 そして、その詩(偈文)の最後にこの回向文が述べられるのです。
私ども(梵天)のこの宮殿を如来に奉ります。 どうか願わくはこの功徳を あまねく一切の生けるものたちに及ぼし 私どもと衆生と皆ともども 仏道を成就、完成したいものであります。
この切なる願いにこたえて、大通智勝如来は初めて教えを説き明かしていくのです。
この回向文のこころは、自分一人だけでなく、あまねくすべての人に功徳が、仏の教えが及ぼされることを願うのであり、これぞまさしく仏教の真骨頂であるといえるでしょう。このため、お経を読誦するときは、この回向文を必ず最後に唱えるのです。
回向とは文字通り、回らし、向けるということで、因(悟りの原因となるさまざまな善行)を回らして、果(悟り・成仏)に向かわしめることであり、更には善行の功徳を自分だけが受けるのではなく、他のすべての人々にも回らし与えんとする精神です。
この、菩薩の慈悲にも通じる広大無辺な精神は、宮沢賢治のことばにある「世界全体が幸福になるまでは、個人の幸福はあり得ない」ことを、まさに示しているのでしょう。またこの菩薩道のこころは、いきている人々だけだなく、亡くなった人々にまでも及ぼされます。
『梵網菩薩戒経』に 若し父母兄弟死亡の日は、まさに法師を請じて菩薩戒経律を講じ、福をもて亡者を資けて、諸仏を見たてまつることを得、人天上に生ぜしむべし とあり、亡き人々のために善行を修して回向すれば、亡き人々もその功徳により、必ずその益を得ることができると説かれています。ここに追善回向の意味が深くよみとれるのです。
この先祖供養は、仏教だけでなく儒教でも説くところであり、『礼記』などには先祖供養の祭り方が繁雑なほど述べられています。しかし、その根底にある精神において仏教と決定的に違う点があります。それは
子の曰く、其の鬼(わが家の精霊)に非ずしてこれを祭るは、諂いなり。義を見て為さざるは、勇なきなり。
と『論語』にあるように、儒教では、自分の家の先祖以外の霊を祭ることは、道理に反するものとしてこれを厳しく斥けるのです。先祖並びに三界万霊、すなわち一切の人々のために回向するという考えは、そこには全く存在しません。ここに仏教の回向の精神的特微、全世界につながるこころのあり方がより明確に示されてくると思います。
伝教大師最澄さまも『法華経発願文』に 是を以て今我れ等、三輪清浄の心を以て修する所の大小の福、及び誦経の功徳を、普く極楽国に回向し、自他倶に夢を覚まして、永く夢人無からしめ、自他倶に覚り満じて、永く無上の楽を受けん
と、切実なる願いを吐露されています。
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