住職の独り言」・・・・その52


ハ〜イ コンニチワ みなさん(^0^)

 最近は、昔のイメージとは全く違った春夏秋冬・一年の季節となってしまいましたが、ここ数日ようやく今の時期にふさわしいお天気が続くようになりました。
 みなさん体調を崩されてはいませんか。これからはカレンダーに合わせた健康管理では不充分となりそうです。その日その日で体調管理をしていかなければ、体が気候についていきません。(小生の実感です)

 さて、我が天台宗といえば、伝教大師最澄上人を宗祖と仰ぎお慕い申し上げているわけですが、他にも無くてはならない大事なお方が沢山いらっしゃいます。今日はその中から伝教大師さまの直弟子「慈覚大師円仁」さまをご紹介いたしましょう。

 日本天台宗のなかで、おどろくほど多くの寺院がみな慈覚大師さまを開基に仰いでいます。
 平安時代の前半期に、ようやく朝廷の支配がおよんだ東北地方まで、慈覚大師さまの足跡はひろがっています。最も北には、精霊の集う霊山として名高い、下北半島の恐山円通寺だと伝えられています。
 慈覚大師さまの生まれは、いまの栃木県、当時の下野国都賀郡としか伝えられていません。具体的な生誕地はいまなお学者によって説がわかれます。佐伯有清著『円仁』(人物叢書)では、慈覚大師さまの父についてのいい伝えをもとに、三鴨駅という宿駅のあった、下都賀郡岩舟町畳岡一帯と考証しています。

 慈覚大師さまのもっとも古い伝記には、大慈寺の広智さまが、檀越の壬生氏の家から紫雲が立ちのぼるのを望見して、慈覚大師さまの誕生を知ったことが記されています。同郡壬生町の壬生寺も、出身である壬生氏との関係から、慈覚大師さまの旧跡といわれています。
 壬生氏出身の一少年は、やがて広智さまの導きで、比叡山に登り、天台宗宗祖伝教大師さまのお弟子になるのです。そのいきさつをみていくと、仏縁としかいいようのない、不思議な因縁が働きあっているのです。

 伝記にあるように、大慈寺の広智さまは、壬生氏に男子の誕生があったことを知って、その赤ん坊を、将来自分に預けてもらいたい、立派な僧侶に育ててみせるといって、両親と約束を結びます。
 この広智さまの師僧は、東国化主、東国の仏教指導者と尊敬された薬師寺の道忠さまです。道忠さまは、伝教大師さまが比叡山に仏典を完備しようとして、多くのひとたちにその書写を依頼したおりに、まっさきに、しかも一門の弟 子たちを総動員してそれをひきうけてくださったかたです。

 そして、道忠さまの師僧は、あの鑑真和上さまです。鑑真和上は、日本にいまだいなかった戒律を授けることのできる僧侶として、はるかに唐の国へ出かけていった栄叡、普照の懇請を承諾して、海を越えて日本に戒律をもたらされた方です。盲目になりながら仏の戒めを伝えた鑑真和上のおかげで、東大寺を中心に、関東から東北にかけていわゆる東国の薬師寺、そして九州すなわち西国大宰府の観世音寺と、戒律を授ける正式の道場が開かれることになって、日本仏教に立派な僧侶が生まれることになったのです。

 この鑑真和上は、戒律を伝えたばかりでなく、唐の国では、高祖天台大師智禅師さまの教えを汲むひとりでした。天台大師さまの著書は、こうして鑑真和上のおかげで日本にはじめてもたらされてのです。
 伝教大師さまは、『法華経』にもとづき、だれもがひとり残らず仏になれる教えを弘めようと考えました。そして、その『法華経』の真精神を、もっと正しくいきいきと受けとめていたのが天台大師さまでした。それを知った伝教大師さまは、日夜その著書を待ちこがれていたのでした。そこへ鑑真和上がそれを伝えてくださり、伝教大師さまは天台大師さまの著書に感銘し、天台大師さまの解釈に立脚した『法華経』の宗、天台法華宗を開く決意をしたのです。
 鑑真和上がいなければ、天台宗は開かれませんでしたし、もちろん道忠さまもなく、広智さまもなく、そして慈覚大師さまもありえないことになってしまいます。

 慈覚大師さまは、広智さまのもとで学んでいるときに、ある夜、六尺(二メートル弱)ほどの色の白い、すがすがし顔だちの僧侶の夢をみました。にこにこと笑いかけていろいろ教えてくれました。十五歳のとき、広智さまにつれられて比叡山に登った慈覚大師さまは、はじめて伝教大師さまに会いました。少年の頃あの夢の僧侶と伝教大師さまはそっくりでした。この運命的な出会いののち、慈覚大師さまは伝教大師さまのお弟子となり、その志を大きく発展させることになるのです。

 慈覚大師円仁さまにつては、まだまだお話したいことが沢山あります。ようやく比叡山に登って修行を始められたところまでしか進みませんでしたので、来月以降数回にわたり慈覚大師さまの特集としてお話してみたいと思います。

 今回もご清聴ありがとうございました。
合 掌

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