住職の独り言」・・・・その54


「慈覚大師さま」 その3

拝啓 みなさまお元気ですか・・・?
 年々気候も様変わりしていて、小生が幼かった頃の梅雨とはずいぶん違った梅雨空が続いております。
梅雨に限らず、春夏秋冬すべてが変わってしまいました。冬は冬らしく、夏は夏らしい季節を取り戻したいものであります。このままでは、四季の順番が変わってしまうのでは・・・(それはないでしょうが、四季が無くなってしまうことはありえますネ)

 さて、慈覚大師円仁さまは、承和五年(838)から一四年(847)の足かけ十年にわたる苦難に満ちた中国各地の巡礼行を、『入唐求法巡礼記』に書き残しておられます。その中に記されているエピソードをいくつがご紹介いたしましょう。

 円仁さまは、唐の朝廷の許可が下りず、目的地の天台山に行くことができないまま、揚州でのわずか七ヶ月間の滞在の末、帰国を命じられてしまいました。そこで帰国途中、遣唐使船から脱出して、今でいう密入国をはかったのですが、捉えられて舟に連れ戻されてしまいます。その時の気持ちを「得るものが何一つないまま、手ぶらで帰国船に乗ると思うと、ただため息だけが増すばかりである。これもみな、未だ求法の志を遂げることができないままだからである。」と記しておられます。
 円仁さまは、本来この舟で帰国する義務がある請益僧(しょうやくそう)でした。円仁さまと入唐と帰国を共にする他の僧侶たちよりも、質量ともにはるかに優れた求法の成果をすでにあげていたのです。それにもかかわらず、思わず口をついて出たこの言葉には、円仁さまの燃えるような求法の精神がよくあらわれているといえましょう。

 その後、新羅の人々の助けをかりて唐に留まることに成功した円仁さまは、粘り強く役所と交渉した末、とうとう巡礼の許可を得て、一般の人々の布施を受けながら五台山に向かいます。その旅は怒鳴られたり、追い出されたりする大変な旅だったようで、日記には、「二十数軒の家がある中李村で、つぎつぎ五、六軒の家に宿泊させてくれるよう頼んでみたが、どの家もたいてい病人がいて、宿泊しようにもできない状態である。最後に残った一軒の家に頼んでみたが、泊めてくれるどころか何度も怒鳴られ、罵倒された。そこで一度断られた藤峯家に再び行って頼み、そこに泊まった。主人は仏心のある人だった」とか、「宿泊した家の婦人が私たちに怒声を浴びせたが、夫は妻が悪ふざけをしているのだと弁解していた」などの記事が出てきます。
 また、「主人はまだ仏法をよく理解していないようであるが、自分の供養の食事を作って、昼食を私たち僧に施し与えてくれた」とか、「主人は貧しいながらも供養の食事を施してくれた」などの記述もあり、こうした旅の経験から、円仁さまは一般の人々の信仰をとても大切に考えられたようです。

 はじめて五台山の麓からその姿を遠く仰ぎ見た時、円仁さまは、「地にひれ伏して礼拝した。・・・遙かなその頂を望んでいると、おもわず自然に涙が流れ落ちてきてしまった」と、その感激を素直に記されておられます。日本を出発してから約二年もたって、やっと本格的な求法活動ができるる聖地に足を踏み入れることができたのです。ここで天台の教えや、五種類の音階と旋律型で阿弥陀仏を唱える五会念仏などを学んでから、円仁さまはいよいよ都の長安(いまの西安)に向かいます。

 長安ではおもに密教を精力的に学びました。また寺々をめぐり、貴賎男女を問わず、一般民衆もたくさん参加して仏さまのご遺骨を供養する「舎利会(しゃりえ)」や、一般の人々に分かりやすく仏教の教えを説く「俗講(ぞっこう)」などの行事も熱心に見てまわりました。しかし、新しく即位した皇帝の武宗は、僧侶を打ち首にしたり、強制的に俗人に戻させるなどのはげし仏教排斥の政策をとりました。円仁さまも還俗させられ、国外追放の身となったのです。
 「還俗させられることはあまり気に病まなかったけれども、せっかく写し取った仏教典籍や仏画類などを日本に持ち帰れなくなることが本当に心配だった。・・・もしこの災難がなかったまらば、帰国するきっかけもつかめなかったであろう。幸いに願いがかなって仏典や仏画を持ち帰ることができるのでうれし」。これがその時の円仁さまのお言葉です。まさにご自分の身命をも惜しまぬ求法の人だったのです。

 帰国までに、さらに二年間の流浪の旅を強いられた円仁さまについて『日本往生極楽記』は、「およそ仏法が日本に伝来したのは、半ば慈覚大師の力によるものである」と記しています。円仁さまは、伝教大師最澄さまの志を承けて、中国巡礼の成果をもとに、天台宗を拡充・発展させる基礎を築かれた求法の人であったのです。

 では皆様、暑さもまだまだ序の口、食物も傷みやすい季節、無理をして体調を崩さないように気をつけましょう。

合 掌
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