住職の独り言」・・・・その56

「慈覚大師さま」 その5

11月に入り、朝夕はめっきり冷え込むようになりました。
皆様、体調管理には充分にお気をつけ下さい。今から風邪などひくとこの冬がたいへんですよ。

 さて、しばらく慈覚大師円仁さまのお話をしてまいりましたが、今月でひとまず終了させていただきたいと思います。これまでは、慈覚大師さまの生い立ちや、ご修行の様子などをお話してきましたが、今回初めてココへお越しになった方にも凡そのことが判るよう、総集編といったお話をさせていただきます。

 天台宗第三代座主、比叡山第四祖である慈覚大師円仁さまは、延暦十三年(794)下野国、今の栃木県に出生されました。生誕の地は、厳密には諸説のいるみだれるところですが、下都賀郡小野寺町にある天台宗大慈寺にほど近いところで、壬生家の出身でありました。

 大慈寺の広智上人にともなわれて比叡山にのぼり、天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまに弟子入りしたのが、大同三年(808)、円仁さまが十五歳の時でありました。 すでに大慈寺の広智のもとで『観音経』を読み、仏教に生きる決意をしたというのですから、その若くして聡明であったことはいうまでもありません。
 そして、比叡山の伝教大師さまからは、主として中国の高僧天台智禅師(538〜597)の教えを授けられ、『摩訶止観』という修行の基本理論にちいてはただひとり伝教大師の代講ができるまでに、深い理解に達していたと伝えられています。その才能の俊敏なること第一というべきでしょう。

 こうして、伝教大師さまの教えを受けた円仁さまは、弘仁五年(814)正月、正式に僧侶への第一歩である得度を許され、弘仁七年(816)には奈良東大寺の戒壇にのぼって一人前の僧侶となりました。
 それからの円仁さまは、伝教大師さまについて、あるいは関東に出かけて天台宗をひろめ、あるいは密教の入門儀式である灌頂も手伝いました。
 伝教大師さまは、この円仁さまを見込んで、つぎのような委嘱をしました。
 伝教大師さまはいいます。「仏さまは、真理をさとったかたです。そのさとられた真理が、永遠不滅であることはいうまでもありません。ところで、わたくしたち迷いの世界にあるものも、実は仏さまのさとられた真理の世界に生きているのです。それにただ気づかないでいるばかりなのです。」
 そして、伝教大師さまは、円仁さまにこういいます。「どうか円仁よ、迷いの世界にあるあらゆるひとびとに、すでに永遠不滅な真理の世界に生きていることに気づくよう導いてもらいたい」と。 大変むづかしいことですが、円仁さまは、中国の天台大師さま以来、伝教大師さまに受け伝えられた、この『法華経』の至極の精神を具体化するために、実に多くのことをなしとげられました。

 伝教大師亡きあと、円仁さまは比叡山北峰の横川にはじめて修行の場をひらき、まず、写経をはじめられました。紙がなければ自分の皮膚をはぎ、筆がなければ自分の骨の先端を削って『法華経』を写そうという「如法写経」は、真剣な修行ではありますが、普通の写経は僧侶でも一般人でもできる修行です。
 このあと、承和五年(838)から十四年(847)まで、足かけ十年間、中国に渡って艱難辛苦の末に、密教も弥陀念仏の教えも伝えられました。ことに、唐で武宗皇帝が即位して以来の仏教排斥の政策は、僧侶の首をはねたり、俗人にさせるというはげしものでした。この事情のもとで、学んだ密教や念仏の教えを、とうとう日本に持ち帰られたのです。仏法のために身命をなげうったことでは、この円仁さまが第一でありましょう。

 帰国ののち、仁寿四年(854)には天台座主になられ、天台宗を統率することになります。学び帰った密教で、すべてのひとたちに、身分をわかたず祈祷をしてあげました。国家を守るもといとして、伝教大師さまが発願して果たせなかった『法華経』の宝塔、法華総持院も建立されました。男性ばかりでなく、女性にも大乗菩薩の戒律を受けられる理論と機会をうちたてられました。そして、伝えた弥陀念仏は、やがて日本の弥陀信仰をみちびき、鎌倉仏教の念仏宗を生みだすきっかけとなり、教えをひろめて、千年あまり、あらゆるひとびとを救ってくださったのは、みなこの慈覚大師円仁さまといって過言ではないでしょう。
合 掌
文中の写真は「11月中旬の境内」
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