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住職の独り言」・・・・その61 朝夕は、だいぶ秋の気配が漂ってまいりました。 夏の疲れが出て、体調を崩されている方はおりませんでしょうか。 小生は、お蔭様ですこぶる元気に過ごさせていただいております。 大変長い間ご無沙汰をしてしまいまして、誠に申し訳ありませんでした。 毎月気にかけていながら、法務・雑用に追われ後回しにしてしまい、サボッてしまいました。 今日は、先日目にした本に書かれていたことを元に、仏教の原点、お釈迦さまの誕生についてオシャベリしてみたいとおもいます。4月の花祭り(釈迦誕生会)に合わせてお話するほうが良いのかもしれませんが、来年の春までは覚えていられないと思いますので、忘れないうちにお話しておこうというわけです。 世界の三大宗教と言えば、キリスト教、イスラム教、仏教と言われていますが、キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生した兄弟宗教と言えます。そして母体であるユダヤ教は西アジアの形が牡牛座・オリオン座に似ていることから起こった。ということはキリスト教とイスラム教も星信仰が根底にあるということになるようです。では三大宗教のもう一つ仏教はどうでしょうか。仏教はインド大陸から起こりましたが、その形は逆三角形でシナイ半島によく似ています。シナイ半島はオリオン座の下半身とされており、インド大陸も同形であることから、仏教も同じオリオン座・牡牛座信仰を土台にして生まれたのではないだろうか。と著者は述べています。 インダス文明は紀元前2600年頃、メソポタミア、エジプトよりやや遅れてインド西方のインダス川流域に起こり、前1800年頃に生滅しますが、その伝統を受けた文明がインド東北部のガンジス川流域に出現し、その後、部族間で争いながら小国家を誕生させ、そして前600年頃になると王国の数は16に達し、ちょうどその頃にお釈迦さまが誕生したわけです。 お釈迦さまはヒマラヤ山脈の麓、現在のネパールの領土内にあるルンビニーでお生まれになりました。父は釈迦族の国王シュッドーダナ(浄飯王)、母はマーヤー夫人(摩耶夫人)。夫人はお釈迦さまを産んで7日後に亡くなり、代わってマーヤー夫人の妹であるマハープラジャーパティーが養母となり育てました。 王子として誕生したお釈迦さまは、19歳の時にヤショーダラー姫と結婚し子供をもうけましたが、人間の「生老病死」の苦しみを救うため、26歳の時城を出て修行者となりました。そして6年間の苦行を経て、菩提樹の下で悟りを開いたのでした。その後インド各地を布教してまわり、80歳の時にインド北部のクシナガラで涅槃の時を迎えたのです。 釈迦という名前は「シャカ族の出身者」という意味で、仏教の開祖として尊称する時、日本では、お釈迦さま、釈尊、仏陀などと呼び慣わしております。 「仏陀」は、梵語の「浄められた人」「覚った人」の意味で「ブッダ」を漢訳した語で特定個人を指す言葉ではなく普通名詞です。そこで仏教の開祖を指す場合は、梵語では氏姓であるゴータマを冠して「ゴータマ・ブッダ」と呼ぶ習わしだったといわれています。 この「ゴータマ」の意味について、インド学の中村 元博士は、「Goは牛、tamaは最上級を示す語尾で、『最もすぐれた牛』『最上の牛』という意味である」と述べています。つまりお釈迦さまの名前そのものが、牡牛座信仰からのもののようである、というわけです。 お釈迦さまの誕生地はインド北部のルンビニー園で、その時の様子は『過去現在因果経』というお経にこう記されています。 その時、マーヤー夫人は、すでに園に入り終わって、諸根寂静にして、4月8日、日の初めて出づる時に、夫人はかの園の中に、一つの大いなる樹のあるを見たり。名づけて「無憂」という。花の色も香も鮮やかにして、枝葉は分布して、極めて茂り盛んなり。即ち右手を挙げて、これを牽き摘まむと欲するに、菩薩(釈尊)は漸漸に右脇より出づ。時に樹下に、また七宝よりなる七蓋の蓮花生ず。大きさ車輪のごとし。菩薩すなわち蓮花の上に降りて、扶持する者も無きに、自ら行くこと七歩なり。 王妃は出産に備えて実家に帰る途中、ルンビニー園に入りました。そして王妃が無憂という大樹の枝に右手を伸ばした時、お釈迦さまはゆっくりと右脇から生まれ出たと記されています。このような普通では考えられない出生の仕方は他の古い仏伝も同じで、パーリ文『ジャータカ』にも、こう記されています。 王妃はルンビニー園のサーラ樹の森で遊びたいという思いにかられた。廷臣たちは王妃を案内してサーラ樹の森へ入った。王妃は吉祥ナサーラ樹の根本へ行き、サーラ樹の枝をとらえようと思った。サーラ樹の枝は、よく蒸気で蒸した藤の先のようにたれさがり、王妃の手の届くところにあった。王妃は手を伸ばして枝をとらえると、まさに、その時陣痛が起こった。そこで、王妃のために天幕を囲い、大勢の人々は退いた。王妃はサーラ樹の枝をとらえて、立ったまま右脇から胎児を出生した。 この他、いずれの仏伝も、お釈迦さまは母親の脇腹から生まれたとなっています。この理由はまったく不明であり、一般には偉人にありがちな異常出生の類と解釈されています。しかし脇腹からの出生というのはお釈迦さまだけではなく、偉人や神についてもそのように語られているものもあります。
このような例から、脇腹からの出生は王族のみならず神や偉人にも語られ、世界的に広がっていた神話的出生の一つのパターンであったようです。では、それは一体何を意味するのでしょうか。 もう一度、お釈迦さまの誕生時の様子を整理してみると、各種の仏伝に共通するのは王妃が、 @ 樹の枝をとろうとした時。 A 立ったまま。 B 脇(右)からの出産。 この3点です。この王妃の姿は、オリオン座・牡牛座の形と同じなのです。オリオン座をマーヤ夫人、牡牛座を無憂樹としると、夫人がその樹の枝に手を伸ばそうとしているように見えるのです。つまりこの仏伝は、エジプトのナルメル王が異民族を討つ姿や、エデンの園で禁断の果実に手を伸ばすアダムとイヴの姿と同じ構図になっているのです。そしてここで三つ星の位置を見ると、腰から脇腹に向かって並んでいます。お釈迦さまなどが脇腹から誕生したというのは、おそらくこの光景からのものではないでしょうか。帝釈天(インドラ)が『われは斜めに脇腹より出でんとす』と言ったとあるのはまさにそれを裏付けています。つまり脇腹からの誕生とは、神の国とされた三つ星から生まれたとしているのです。 お釈迦さまは生まれた時、一人で7歩歩き、右手で天、左手で地をさし、『天上天下、唯我独尊』と言われたと伝えられています。この天と地を指さした姿もまた、オリオン座の光景からのものでしょう。オリオンは右手で棍棒を振り上げ、左手に持つ獣皮は下に垂れています。まさに天と地を指さしているのです。 お釈迦さまは『天上天下、唯我独尊』と言われたといいますが、この言葉は直訳すると『この世の中で、ただひとり自分だけが尊い』という意味になり、平等を説いたお釈迦さまにしては不具合なものであります。(この訳はあくまでも直訳であり、現在では本当の意味合いではないと言われています。) しかし、この直訳もまたオリオン座に関する物語によって違ってきます。 ギリシャ神話では、猟師オリオンは『天下に自分ほど強いものはいない』と高言してはばからなかった。これを耳にした女神ヘーラは怒り、こらしめるため大サソリを送った。オリオンはこのサソリに刺されて死に、夜空のオリオン座になったと言われています。オリオンは『天下に自分ほど強いものはいない』と常々威張っていたのです。それを漢文で書くと『天上天下、唯我独強』ということになります。この中の『強』がお釈迦さまということから『尊』になり、『天上天下、唯我独尊』という言葉にしたのではないでしょうか。(?) ![]() 古代では文字も本もなかったから、物語を語るには夜空の光景を援用した方がよりリアルに感じられたという、そんな時代的な背景があって聖書やお釈迦さまのお話が伝わったのでしょう。 如何でしたでしょうか。今まで皆さんの見聞したお釈迦さまの誕生光景とは、かなり視点の違ったお話ではなかったでしょうか。小生もこの本を読んだ時は、ある種不思議な感動を覚えました。以前『お釈迦さまは宗教者ではなく、哲学者だ。』とおっしゃる方のお話にも「なるほど。」と感心し、今回もある意味「なっとく!」でした。 これからは夜空の星を眺めるのに丁度良い季節になります。今秋は星を眺めながら、ギリシャ神話でなくお釈迦さまの物語に思いを巡らしてみようと思います。
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