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住職の独り言」・・・・その65![]() 最近、お檀家さんと顔をあわせると、必ず雨の話題から話が始ります。今年はまだ熊谷が暑さの話題でニュースにならないことも話題のひとつです。 さて、今月は月遅れのお盆月ですね。日本全国ほとんどの地域でお盆の行事が行われ、日本列島大移動が行われます。今年は、高速道路料金が値下げされるようですので、今までの年以上に人の移動が激しくなるそうです。 まさにお盆、ご先祖さまだけでなく生きている人間も里帰りするわけですなァ〜。 普段、皆さんは何気なく「お盆」という言葉を使い、それぞれの行事をおこなっておると思いますが、さてお盆とは・・・? お考えになったことありますか。今月は「お盆」についてお話してみましょう。 「お盆」は、ただしくは「盂蘭盆」と呼びます。サンスクリット語の「ウランバンナ」を漢字にしたもので、「倒懸」を意味し、「さかさまにつるされる苦しみ」と説明されています。 もし、自分のご先祖様が、そのような苦しみにあっているとしたら、なんとか救ってあげたいとだれしも思うでしょう。お盆の行事は、そういう願いから始ったことはたしかだといえます。 お盆は「一年に一回、地獄の釜のふたが開く日」ともいいます。すなわちご先祖様があの世から帰ってくる日であります。仏壇をきれいにして、精霊棚を飾りつけ、迎え火を焚くという恒例の行事はご先祖様を迎えるためにかかせません。 私達には無数のご先祖様がおられます。もちろんすべてのご先祖様が地獄や餓鬼道に堕ちてしまっているわけではありません。不幸にして悪世界で苦しんでいるご先祖様がいるとしたら、お盆の供養はご先祖様にとって大きな救いになるわけです。同時にそのようなご先祖様を供養できるお盆の行事は、まことに有難く意義深いものと言えるのではないでしょうか。 お盆のはじまりは「盂蘭盆経」というお経に由来しております。お釈迦さまの十大弟子の一人、目連尊者がご自分のお母様が餓鬼道に堕ちて苦しんでおるのを知り、どうしたら母を救うことができるでしょうかとお釈迦さまに尋ねたたところ、「お前の母の罪はとても重い、生前人に施しをせず、自分勝手な人間だった。その罪をなくすためには、息子である目連よ、お前が布施行をしなければならないのだ。」と答えられ、その方法を教えてくださいました。 目連さんは早速教えられたとおり、出家者たちの修行期間が終わる7月15日に、修行を終えられた大勢の修行者を招き布施行を営み、その功徳によってお母様を餓鬼道から救われたのです。 日本で盂蘭盆会の行事が営まれるようになったのは、推古天皇の時代(606年)に斉会をもうけたことが記録に残されています。その後斉名天皇の時代に盂蘭盆会を催したことが記録されております。 お盆の時期については、7月13〜16日の四日間ですが、現在では新暦の8月13〜16日に行う地方が多くなりました。ちなみに8月13〜16日のお盆は、月遅れのお盆であり、旧盆と呼ぶのは正しくありません。 お盆の時期には、「施餓鬼(施食)会」という法要が、寺院でさかんに行われます。 「施餓鬼(施食)」とは、餓鬼に飲食を施すための法要です。 やはりお釈迦さまの時代、弟子の阿難尊者が、ある時、餓鬼に「お前は3日以内に死ぬ」といわれ、お釈迦さまの教えに従って、施餓鬼棚に山海の飲食をお供えして経を供養したところ、阿難尊者はお釈迦さまの弟子の中でいちばん長生きをいたしました。 「お施餓鬼(施食)」は、餓鬼に施すという意味ですが、別名、百味供養と呼ぶように、餓鬼に飲食を施すことによって、ご先祖さまの供養をする法要であるわけです。 お盆の行事は、自分達のご先祖様が、あの世で苦しんで欲しくない、という願いから始った、といってもよいでしょう。それに対して「施餓鬼(施食)」は、餓鬼はもちろん、供養する人のいない無縁の仏様も供養する法要である、とされています。 さらに、人間の生命は、肉や野菜などによってあるわけで「施餓鬼(施食)会」はそれら生きとし生きるものの全てへの供養であります。 仏教には六道という考え方があります。六道とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄のことです。 この六道をグルグルと輪廻転生しているのが迷いの凡夫です。 六道の中の畜生・餓鬼・地獄の三つを三悪道と呼び、三つの悪世界とされています。もし、そのような世界で苦しんでいたりしたら、なんとか救ってあげたい、あるいは、そういう状態にならないように、善根を施す行為が、「お盆」や「施餓鬼(施食)会」の目的、と解釈してよいでしょう。 日本では、このような餓鬼のイメージと、昔は多発したであろう災害や飢餓で、非業の死を遂げた死者の姿が重なり、供養するため「施餓鬼(施食)会」がさかんに営まれるようになった、とされています。 現在でも水死者を供養する「川施餓鬼」や「浜施餓鬼」は各地で行われています。 私たちは、この現実社会を仏の浄土とするため、修羅のような戦争をなくし、平和な世界を築きたいものであります。 |
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