住職の独り言」・・・・その69

 さまざまな記録を塗り替えた今年の夏も過ぎ、秋らしい毎日が続くようになりました。
みなさまお元気でしょうか。夏の疲れが出て体調を崩されておられる方も多いと聞き及んでおります。
体調管理には十分注意いたしましょう。

 さて皆さん、

 山のあなたの空遠く
 幸い住むとひとの言う   (カール・ブッセ)


という言葉ではじまる有名な詩があることをご存じの方も多いでしょう。
 人間というものはまことにやっかいな存在で、現在の自分にはなかなか満足しないものです。 もっとも、だからこそ進歩も発展もある、ということはできますが、忘れてならないことは、それでは、どうなったら本当に満足できるのか、ということではないでしょうか。
 メーテル・リンクの「青い鳥」によってもまことに明らかなように、「幸せの青い鳥」をいくら外で探そうとしてみたところで、「わが家」以上の「幸せな場所」などどこにもないのです。
 それにもかかわらず、若いころには早く成長すれば幸せになるにちがいない、と錯覚し、年を取ると「若いころは幸せだったなあ」と過去をなつかしんで涙しているのです。
 「明日になればきっと幸せになれる」と信じるのは勝手ですが、そのために努力することだってきわめて大切ではありますが、今日幸せだ、と感じることができない人が、はたして明日になったら本当に幸せだ、と感じることができるかどうか大いに疑問ではありませんか。

 世の中には、老若・地位・健康・男女・学歴・経歴・職業などを異にする、さまざまな人々が存在しているのですが、それらを超越してだれでもが幸せになれる道を説いているものこそが宗教ではないでしょうか。
 多くの宗教では、この世で幸せになれなかった者たちにたいして、次の世こそが理想の世界である、といった教義を説くことにもなってくるのですが、正直なところ、一般の人々にとってみれば、行ったことのない来世のことよりも、現実に生きているこの世での毎日の生活のほうこそが大切なのではないでしょうか。
 そうなってきますと、残された方法は、ただ一つということになるでしょう。
  

 安かりし 今日の一日を 喜びて
 み仏の前に ぬかづきまつる     (大谷姙子)


 朝、目がさめたときに、「さあ、今日一日を絶好の日にするべく全身全霊をもってがんばろう」と誓い、せいいっぱいの努力によって得ることのできたその日一日の結果を、「本当に良い一日だったなぁ」と喜んで受けとめることができたならば、同じように素晴らしい毎日を積み重ねることができるはずなのです。
 そして、そのような毎日の積み重ねによってやがて一生を終えるころになると、「自分の一生はほんとうにすばらしい一生だったなぁ」と振り返ることができるのではないでしょうか。
 お釈迦さまが説いているように、たしかに人間にとってのこの世の中というのは、四苦八苦に代表される、さまざまな苦しみによって満たされています。
 すなわち、生まれたものはやがて老い、病にかかり死んでゆく、という苦しみの他に、愛する者たちとは永遠に離別し、怨み憎む者たちとも会ったり話たりしなければならず、そして、求め探しているものを得ることができない、といったさまざまな苦しみが、私たちを襲ってくるのです。
 それにもかかわらず、私たちの一人一人は、死ぬその日まで生き続けてゆかねばならないし、せっかく生きている毎日ならば、その中で喜びを見出してゆくことが大切なのではないでしょうか。
 過ぎ去った日々を後悔の念をもって思い起こすのではなく、ぜったいに戻ってはこない、今日という一日を、せいいっぱいに生きることこそが、人間として生まれさせてもらった私たちの本当の生き方なのです。

 心地よい風を身体に受けながら、天空にかかる美しい月を眺めることができる幸せ、ということならば、だれにでも感じられるはずなのです。
 大切なのは、花が咲いているときにはその花を喜び、満月を眺めているときにはその月の美しさを観賞して、そこに生きる喜びを見出すことなのです。
 たしかに自然現象の一つ一つは、なにも私という一個人のためにあるわけではないのですが、太陽が東の空に昇るのも、真っ暗な夜に月が天空にかかるのも、暑い夏の夜に涼しい風が吹いてくるのも、そして、寒い冬に真っ白な雪が降ってくるのも、それらはすべて私の人生を意味あるものにするためであった、と受け取ったときに、その人の人生の一日一日が、まことに有意義なものになってくれるのです。
 まさにそういうひとにとっては、
  「日日是れ好日なり」 なのです。

 我々は、生まれた瞬間から、たとえそれがいつ訪れるかはわからないものの、死に向かって一歩一歩近づいていっていることだけはまちがいないことなのです。
 そういった無常の人生の中で、今日過ごすことのできた、一日を二度ともどってこないすばらしい絶好の一日であった、と受け止めたとき、その人の生命は輝いているといってもよいでしょう。 
合掌九拝

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