住職の独り言」・・・・その70

 こんにちは。お元気ですか…?
 今年は本当に異常気象ですね。夏の猛暑、お彼岸の中日を境に急な冷え込み、その後秋晴れの日よりも雨降りの日の方が多く季節外れの台風の接近。
 自然現象ですから、我々人間の力ではどうにもならないことなのですが、本当にこの地球は大丈夫なのでしょうか。よく、「将来大変なことになると言っても、自分たちの生きている間は大丈夫。」と言いますが、そんなノンキなことを言っていられなくなってきていますよ。異常気象の影響が、あらゆるところに悪影響をもたらしていますからね。

 さて、皆さん「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉を聞いたことがあると思います。声に出して「色即是空、喝(かあーつ!!)」などというと、少し悟ったような気分になるから不思議です。この色即是空が出てくるお経が『般若心経』です。
 全体でわずか278文字しかない短いお経ですが、仏教の究極の教えが説かれています。短いから受けるのか、それともやたらと「無」とか「空」という文字が出てくるので、奥が深そうに感じられるのか、お経の中で一番人気があるようです。ところが600巻もある『大般若経』の教えをコンパクトにしたもので、中身が濃く、理解するのはかなり難しいものなのです。

 『般若心経』の正式名称は『摩訶般若波羅密多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)といいます。「摩訶」とは、古代インド語(サンスクリット語)のマハーをそのまま音写したもので、偉大なとか、最高という意味があります。すでに「摩訶不思議」などと日本語にもなっています。
 次の「般若波羅密多」もサンスクリット語のパンニャ・パーラミターの音写です。「般若」は智慧、「波羅密多」は渡すとか到るの意。そこで「智慧の完成」とか「到彼岸(とうひがん)」と訳されています。
 彼岸とは、私たちの住んでいる悩み多きこの世界である此岸(しがん)に対し、仏の住む悟りの世界をいいます。ですから彼岸に到るとは、最高の智慧を完成させることになるわけです。

 次に「心経」の「心」ですが、これは心臓を意味するフリダヤの訳です。
 以上から『摩訶般若波羅密多心経』とは、最高の智慧を完成させるための中心となるお経ということになるわけです。

 次に『般若心経』からいくつかのキーワードを取り上げて、解説してみましょう。
観自在菩薩   般若波羅密多   色即是空   不生不滅
心無罣礙   阿耨多羅三藐三菩提   無等等呪   の七つです。

 この後少し長くなりそうですぞ。覚悟してお付き合いください。


観自在菩薩(かんじざいぼさつ)
観音さまのことで、このお経の主人公です。『般若心経』とともに最も一般に親しまれている『観音経』の主人公でもあり、『観音経』には観世音菩薩の名前で登場しますが、同じ人物です。人物といっても、ほとんど仏さまと同じ立場におられます。いずれもアボロキティー・シュバラというインド名を訳したものですが、性格を取るか役割を取るかで訳が違ったようです。
「観自在」とは、この世の中の成り立ちや姿を自由自在に色々な角度から観察して、真理を見極めることです。 観世音とは、この世の生きとし生けるものすべての営み[世音]に心を配り、その悩みを聞きとどけることです。ですから私たちの立場からは「観世音菩薩」の方が親しみ易く有り難いのです。
 しかし『般若心経』では観音さまが明らかにした真理のことが書かれていますから、その原語に対して忠実に「観自在菩薩」と訳されています。
 さて、「心経」は観音さまがお釈迦さまに代わってお説法したものです。相手は釈尊の弟子の中でも智慧第一といわれた舎利子(しゃりし)です。ですから中味が少し高度になっているのでしょう。
般若波羅密多(はんにゃはらみった)
先に申した通り、最高の智慧の完成のことですが、そのためには五つの徳目を実践することが必要です。
一、布施波羅密(ふせはらみつ)
二、持戒波羅密(じかいはらみつ)
三、忍辱波羅密(にんにくはらみつ)
四、精進波羅密(しょうじんはらみつ)
五、禅定波羅密(ぜんじょうはらみつ)
の実践ですが、その結果得られた般若(智慧)波羅密を加えて、六波羅蜜といいます。
 かなり以前に、六波羅蜜についておしゃべりした記憶がありますが、改めて簡単に申しますと、布施とは、謙虚さを忘れず、必要としている人びとに金品や親切を施す行為。持戒とは、自分自身を律し、心を高める行為。忍辱とは、忍耐強く我慢する行為。精進とは、目標に向かって努力し、自分を磨く行為。禅定とは、静かで柔軟な心を保つ行為。般若とは、物事の本質を見極める心の働きのことです。
 観音さまは六波羅蜜を完成した結果、この世の中が「空」であることを明らかにしたのです。これを「空観」の完成ともいいます。
色即是空(しきそくぜくう)
「色」とは、この世に存在するすべての物質のことです。目の前に存在する物は固定的であるように思われますが、それは仮の姿、本質は実態が無く「空」であるという意味です。
 例えば机があるとします。使用目的からいえば勉強机かも知れませんが、脚がなければガラクタか薪です。材料を見れば木ですが、さらに分析すれば水やタンパク質となります。水やタンパク質は分子から成り立ち、全く自性のない粒子が「縁」によって集まっているだけなのです。
 あたかも空に浮かぶ雲のように、常に色々な形をして変化し、生まれたり消えたりして、捉えどころがありません。それゆえに机はたまたま「縁」によって机に見えるものの、その実体は「空」なのです。
 また、「色即是空」を人間に当てはめて「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と表現しています。
「五蘊」とは五つの集合物のことで、色・受・想・行・識の五つのことです。「色」は、物質ですからこの場合、肉体を指し、受・想・行・識は精神作用をいい、四つに分類しています。
 一例をあげれば、美しいと感じたり、欲しいと思ったりすることです。肉体は細胞の働きで刻々と変化し、また、心も常に変わるので、人間の存在自体も実態が無く「空」だというわけです。
不生不滅(ふしょうふめつ)
 すべての存在が「空」であることがわかれば、この世に始めも無く、終わりも無いことがわかります。ただ「縁」によって粒子が色々なものを構成したり、変化したり、分解したりしているだけになります。
 だから新たに生じることも滅することも無く、増えることも減ることも無く(不増不減)、粒子そのものは自性が無いのですから、汚れていることも、きれいなこともないのです。(不垢不浄)
心無罣礙(しんむけげ)
 「罣礙」とは、ひっかかりのことですから、こだわりのないことをいいます。六波羅密を完成させること、心のこだわり、すなわち、執着が消えて、すべての欲から解放され、清浄な心になります。
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
 やはりサンスクリット語を漢字の音で表したものです。
 阿耨多羅は「無常」、三藐は正しいとか完全な、三菩提は正覚(まぎれもない悟り)のことです。そこで比較するものがない完全無欠な悟り、という意味になります。
無等等呪(むとうどうしゅ)
 「般若心経」というと終りの方にある「ギャーテー、ギャーテー云々」という呪文の言葉が気になりますよね。これを「無等等呪」すなわち、仏と等しい悟りが得られる言葉といいます。別名「無上呪」これ以上のものは無い言葉ともいいます。
 サンスクリット語ではマントラといい、真言と訳されていますが、陀羅尼(だらに)と同じ意味に使われています。
 そして、もちろんこのギャーテーで始まる真言を訳することは出来ますが、言葉それ自体に不思議な力があるとされ、翻訳されることなく、そのまま伝えられてきました。
 浄土教の祖といわれる比叡山の恵信僧都(えしんそうず)は「無上法王、すなわち仏の密語真言だから一字に比べもののない威力がある」また、弘法大師は「陀羅尼(呪文)は如来の秘密語だから、古来の翻訳家はみな口を閉じ、筆を絶して説かなかった」といっています。
 おそらく観音さまは舎利子が六波羅密を行ずることに偏したり、「空」の理論を精密に展開して知に偏することを戒めているのです。知識と修行のバランスをとりながら、おのれ自身を無にして、ひたすらに真言を唱えると、はじめて眼前にこの世の実相が展開しているのに気がつくとおっしゃっているのでしょう。


 さて、それではキーワードを中心に般若心経の概略をお話しましょう。
 観音さま(観自在菩薩)が最高の智慧を完成(深般若波羅密)させるための修行を続けているうちに、この世界のすべてのもは移り変わり、実体がなく(色即是空、五蘊皆空)新たに生ずるものも、また、滅するものもない(不生不滅)ことを見極められました。
 そして、そのことによって一切の苦悩から解放されたのです。それ故色々な菩薩たちもこの修行のお陰で、心に何のこだわりも生まれず(心無?礙)、すべての仏さまもこのうえない悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得られたのです。
 そこで最後に、最高の智慧を完成させるための、すなわち仏と等しい悟りが得られる真の言葉(無等等呪)を説いています。「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ギャーテーギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカー)」

 今日のお話は、般若心経の内容にそっておしゃべりさせていただき、かなり長いお話になってしまいましたが、観音さまがどのような修行を積んで悟られたのか(菩薩になられた)一言で表すと、『智慧の眼で世の中を観る』ということなのです。
 IT全盛時代、目で見えるものしか信じない、信用できないという人が増えてきていることが、殺伐とした砂漠社会を築いてしまっているのではないでしょうか。『智慧の眼で観る』ということを心がけていただき、縁あってこの娑婆世界で生かさせていただいている間、精進してみましょう。「意外と極楽浄土は近くにあるものだ。」と気付かれることとおもいますよ。
 
 本日も、お付き合いいただき有難うございました。
合掌九拝
戻る