住職の独り言」・・・・その77

 梅雨の真っただ中でやんすが、お暑〜ございます。
ことしもここ熊谷が日本記録を更新いたしやした。どうだマイッタカ〜〜!6月の最高気温39.8度だぞ〜。観測所の百葉箱の中の気温です。
 人間の生活している空間では、当前40度は越えて、街中のコンクリートジャングルでは、45度超えでしょうなァ〜。梅雨が明けて、本格的夏が来るのが楽しみ(?)でやんす。日本最高気温の更新が期待されますぞ。みなさん、こうご期待!!

 さて、節電に協力して頭にタオルを巻き、扇風機を回しながらおしゃべりを始めましょうかね・・・

 家族の一員や近親者のだれか、あるいは親友の一人、といった人を失ったとき、よく我々は、「この人のいない人生なんて考えられない。いっそのこと自分もこの人といっしょに死んでしまいたい」などといって嘆き悲しむのです。中には、悲嘆のあまり、「代われるものなら私が代わって死ねばよかった」などということもありますが、本音をいえば、代わることなど不可能だ、ということを知っているからこそいえるのです。「独りで生まれて独りで死ぬ」などというと、「いや、双子や三つ子はいっしょに生まれてくるし、死ぬときだって、心中や事故でなら必ずしも一人ではないだろう」と理屈をこねるのですが、それはあくまでも物理的な意味であって、実際のところ、すべての人間の一人一人は、「二度とない人生を、ぜったいに他のだれとも代わってもらえない一生」を送って死んでゆくのです。
 たとえ双子や三つ子、あるいはそれ以上の人数として生まれてきた場合でも、個体としては完全に別な存在であり、しかも、その後に歩いてゆく長い人生も、決して同じではありません。したがって、同じ人生を歩かない以上、積み重ねていく行為にも当然ちがいがあることになりますから、その結果として与えられるところの来世だって、必ずしも同じ場所とは限りません。
 すなわち、たとえ心中や事故、あるいは天災・人災によって時間的には同じに死ぬことがあったとしても、それぞれの一生が完全に同じであるはずがないのですから、死後に生まれる世界だって同じとは限らないことになります。

 考えてもれば、人間とはまことに孤独な存在である、といってもよいでしょう。いや、だからこそ、せっかく同じ時代の同じ地域に生まれてきた者たちが、せめてお互い助け合い、頼り合って生きていこうではないか、というところから、人間は社会とか国家とよばれる共同体を作っているのかもしれません。
 そういった共同体の中でも、もっとも小さな単位が家族であり、しかも、家族と呼ばれる者たちは、たとえ独りで生まれ独りで死んでゆくにしても、その中間だけでも、できるだけいっしょに行動してゆこう、ということにもなったのです。
 朝夕家族がいっしょに食事をしたり、休日にはいっしょにどこかへ出かけたり、あるいは、長い休暇になると、国内や海外へと旅行へ出かけるというのも、やはり、少しでもいっしょに歩きたい、という願いのあらわれではないでしょうか。
 しかしながら、よくいわれるように、たとえ親子や兄弟姉妹、あるいは夫婦や恋人であっても、ぜったいに行動をともにすることも、代わってやることもできないことがあるのです。
 それは、老・病・死、そして、それらの原因となっている生、なのです。

 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。子供の死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合は絶対に助け合うことはできないのである。
(『仏教聖典』 おしえ 第4章 煩悩 第3節 現実の人生)

 子が親に向かって、「どうせ生んでくれるなら、どうしてもっと頭がよく、容貌がすぐれ、そして身体が頑健に生んでくれなかったの」などと文句をいうことがありますが、親のほうだって、できることならそうしてやりたかったにちがいないのです。
ところが、残念なことに、親の意志によってそれらのことをきめるわけにはいかないのです。
 もっとも、現代の社会においては、かつてのように、「子は授かりもの」といった受け取り方はしないで、「子は親が都合のよいときに生むもの」などと言っているものですだすから、いかにも「生」は親が勝手に決められるように錯覚して いるのです。
 とんでもないまちがいです。もし親の自由意志によって子どもを産みわけることができるとするならば、もう少しはましな子が生まれていてもよさそうですが、そうはうまくいかないのが人生なのです。
 自分の意志によってではなく生まれてきたわれわれの一人一人は、同じく好むと好まざるとにかかわりなく、一直線に死に向かって歩き、やがて一人で死んでいかなければならないのでしょう。
 どんなに多くの人びとに見守られようと、どんなに多くの参列者が葬儀に出席しようとも、結局は、たった独りで死んでゆかねばならないのです。だからこそ、その死を迎えるまでは、一人でも多くの人とお互いに助け合って生きてゆくことに意味があるのではないでしょうか。
 そうすれば、独りで死んでいった後にも、より多くの人びとの心の中に、その人の思い出が残るから、それだけでも生きてきた意味があったことになります。
 たしかに、独生・独死・そして独去・独来、といわれると、なんとも淋しい人生のように感じられますが、だからこそ生きている間の一日一日の中で、他の人びとに対する思いやりのある行動をとることによって、淋しかるべき人生を、少しでも明るくする努力をする必要があるのでしょう。



合 掌

文中の写真は6月末の境内です

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