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住職の独り言」・・・・その84![]() この冬は、厳しい寒さにみまわれ、雪国では記録的な大雪となり、さまざまな被害が出ているようです。被害に遭われたり、不自由な毎日をお過ごしの方々には、心よりお見舞い申し上げます。 近年よく言われることですが、暑さも寒さも極端になってきているようで、人類に対する自然界からの何らかの忠告と受けとめなければ、取り返しのつかないことになるのではないでしょうか。 さて、お正月になると、初詣や七福神巡りなど、一年の幸せを祈る行事が数多くあり、その季節感とともに、日本の良き風習として懐かしいものです。 災いを避け、幸せを求めるのは人間の自然の情ですが、ただ「幸福」ということに思いをいたすとき、あるお経に次のような「話」が心に浮かんできます。 ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきた。その家の主人が「どなたでしょうか。」と尋ねると、その女は、「わたしは人に富を与える福の神である。」と答えた。主人は喜んで、その女を家に上げ手厚くもてなした。 すると、すぐその後から、粗末なみなりをした醜い女が入ってきた。主人が誰であるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。主人は驚いてその女を追い出そうとした。すると女は、「先ほどの福の神はわたしの姉である。わたしたち姉妹はいつも離れたことはないのであるから、わたしを追い出せば姉もいないことになるのだ。」と主人に告げ、彼女が去ると、やはり美しい福の神も消えうせた。 この福の神と貧乏神の姉妹の話については、お経では、 生があれば死があり、幸いがあれば災いがある。善いことがあれば悪いことがある。人はこのことを知らなければならない。愚かなものは、ただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、道を求めるものは、この二つをともに超えて、そのいずれにも執着してはならない。 と述べて、私たちの心のあり方について諭し示します。 良寛さんの辞世の句と伝えられる うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ という句があります。散る紅葉は、表も裏もその一葉すべてを見せてこそ美しい紅葉なのです。 私たちはとかくすると、色鮮やかな表のみを賞美してしまいます。しかし両面があってこの「もみぢ」なのです。福の神と貧乏神とはいつも一緒なのです。 仏教ではこのことを、難しい言葉ですが「当体全是」と表現しています。 善と悪、菩提(さとり)と煩悩(まよい)など、私たちは善や悟りを好ましきもの、悪や煩悩を遠ざけるべきものとして、一方のみを追求してゆくことが是であるとしますが、「当体全是」とはこの相反するものは、紅葉の表と裏のようなもので、善悪や、悟りと迷いの世界そのまま(当体)が、対立的なものを内包しながら一つの存在としてあるということです。 換言すれば、私たちは生きている限り煩悩を滅したりすることは不可能ということで、それではどのような生き方が可能なのでしょうか。 そのヒントになると思われるのが、あるお経に説かれる善財童子の話です。 昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、道を求め、悟りを願うものであった。海で魚をとる漁師をおとずれては、海の不思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえていることを聞いた。街に遊ぶ子供の群れにも、まことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧を悟った。ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の無常を教わった。 このように童子は、みなことごとく教えであることを知った。 私たちは煩悩にまみれた日常生活の中でも、本当の世界を観ようとする、その心があれば「明らかな智慧」を獲得できるということではないでしょうか。
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