住職の独り言」・・・・その91

 記録的な暑さをもたらした今年の夏でしたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。お彼岸が過ぎてから、ようやく秋らしくなりましたが、秋咲きの花の開花は少し遅れているようですし、秋の味覚の代表、サンマなどの漁場も北海道沖から南下せず、等々の影響が残っているようです。

 さて、数あるお経の中に、「円頓章」というのがございます。般若心経や、自我下偈(法華経寿量品第十六偈)などとともに、天台宗ではもっともよく読まれているお経の一つです。
 中国の天台大師が口述した『摩訶止観』に弟子の章安が付した序文がありますが、これは天台大師が説く天台止観の真髄をまとめたもので、特にその中の円頓止観とは何かと述べている箇所を抜粋したものが、このお経です。また最後の六句は、天台大師から数えて六代目の弟子、六祖湛然が、『摩訶止観』を注釈する中で、天台大師が説く「一念三千」を解説した終わりに述べたもので、「円頓止観」と「一念三千」とは相通ずるものと理解したものなのでしょう。
 このように、円頓章というお経は、天台大師の弟子たちの文を合わせたものですか、個々の文は『摩訶止観』にも出ているので、天台大師の言葉として解してもなんら差し支えありません。本分はわずか157文字で、あの短いお経の代表とされる般若心経の三分の二にもなりませんが、古来天台宗では、天台の教えのエッセンスが詰まったお経として尊重され読誦されているのです。
 短い円頓章の中でも、特に重要と思われる冒頭の文に触れてみましょう。
円頓者初縁実相 造境即中 無不真実
円頓とは、初めより実相を縁ず。 
境に造るに即ち中にして、真実ならざること無し。
 円頓(止観)というのは、仏教に志す初心のときから、あらゆる存在があるがままに、真実を具えていると観じてゆくことである。対象や現象のあり方をよくよく観てゆくと、すべての存在は独立的実在性をもたないもの(空)と知られ、それはたまたま種々の条件によって仮に存在している(仮)のであり、そして空にも仮にも偏らない、中道のみかた(中)に立つと、いまのある存在や現象の外に真実があるのではなく、あらゆる存在がそのまま真実でないものはないと了知するのである。
 心を発した時には、すでに究極の真実のあり方に到りついているということは、華厳経にも「初発心の時に、便ち正覚を成ず」といって、悟りを求めようとする心が、即ち悟りそのものであるとしていますが、そうであれば修行はいらないことになる、という屁理屈をこねるものがでてきます。このような輩はいつの時代にもいるのでしょう。この詭弁を弄することを「円頓ころがし」と云って宗門では厳しく諫めています。
 仏の境地に立ったときのみに、すべてのものが真実に包まれたすがたであることがみえるのです。私たちと仏さまとの違いはただ一つ。仏さまは修行を完成して仏さまになられた。私たちはまだ修行が未完成の迷っている凡夫。この違いです。私たちは発心の時に具えているところの真実を、表面に引き出そうとする努力がまだ足らないのです。修行が不要などとは大きな間違いです。
 迷い、汚れている自分が少しでも仏さまに近づこうとする、その努力こそが尊いのです。
繁縁法界 一念法界 一色一香 無非中道
縁を法界に繁け、念を法界に一うす。
一色一香も、中道にあらざること無し。
 あらゆる存在は法界(一切法)と相依相関する関係にあるのであるから、また念(自分の心)も一切法につらなり、一切法と等しいものとなる。逆に云えば、自分の心に一切法を包んでおり、一切法そのままが自分の心である。また自分の心を離れてみても、一切法の中のごく小さなもの、たとえば一枝の花も、一つまみの香も、どれをとってみても、それらは中道でないものはない。つまりすべての存在が真実に適っているのである。
北原白秋に次のような詩があります。

薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花サク
ナニゴトノ不思議ナケレド
薔薇ノ花 ナニゴトノ不思議ナケレド
照リ極マレバ木ヨリコボルル 光リコボルル


誌人の鋭い感性が、実相の真実のあり方を一瞬の閃きのうちに捉えたのでしょうか。

本日も最後までお付き合い頂き、謝謝。

合 掌

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