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住職の独り言」・・・・その96![]() 力及ばぬこと、と言えば仏さまの世界もまたしかりです。ご縁を頂いてこの娑婆世界にやってきたこの命(たましい)の帰りゆく先も、やはり仏さままかせということです。だれでもが、極楽浄土への里帰りを望みますが、場合によっては、少し寄り道をして帰ることになる場合もあるでしょう。 寄り道の先も、色々ありますが、今日はその中で誰もが一番嫌がる、行きたくないと思う地獄世界の主、閻魔さまについてお話してみたいと思います。嫌がらずに最後までお付き合い下さい。敵(?)に勝つには、敵をよく知ることが大切ですからネ・・・ 今では聞かなくなった言葉ですが、1月16日と7月16日は「やぶ入り」といって、むかし商家の従業員たちに休暇が与えられ、近郊なら家へ帰ったり、休暇を盛り場などで楽しんだといいます。 ことに7月16日は、お盆のあけの日であり、また、閻魔さまの縁日ということで、閻魔詣ででにぎわったものです。 中国風の服装で、宝冠と法服を着て、濃い眉の下にらんらんと輝く恐ろしげな眼が、前に立つものを射すくめます。威厳に満ちたひげ、頑固そうな鼻梁、そして、歯をむかんばかりに開いた口からは、容赦のない叱責の大音声が聞こえてきそうです。手には笏を持ち、目の前の机の上には、あの閻魔帳がひろげてあって、どういいのがれをしようが、これまでの生涯に行った、小さな罪も大きな罪もお見通しです。 閻魔さまの前で、ウソをつこうものなら、大きなくぎぬきで舌を抜かれると親からおどかされたものです。こざかしく罪を隠そうものなら、かたわらの浄玻璃の鏡に、過去の悪業が写し出されて、罪を免れることなどできません。 閻魔さまは、閻魔大王とか閻王とよばれます。中国以来の信仰と重なって、十王が数えられ、死した者は、7日、7日に十人の冥官に出会って、その功と過を検討され、死後の生涯が決められるといいます。 初七日から順に、泰広王、初江王、宋帝王、伍官王、閻魔王、変成王、泰山府君、平等王、帝都王、五道転輪王の十王をめぐるといい、閻魔王を中心に、閻魔さまと同じようなお姿をした九王が列んで安置されていれば、それが十王というわけです。 いかにも中国のお役人のような風貌の閻魔さまも、そのみなもとはインドの神様なのだそうです。 すでに仏教が起こる以前から、ヴェーダのなかに登場し、ヤマ(yama)といい、月神と速疾姫とのあいだに、男のヤマと女のヤミーとともに生まれたといいます。このヤマは、死ぬことを願って、その身を捨てて他の世界へ生まれて、人々に冥界への道を発見してこれを示したというのです。そのため、「唯一の死すべきもの」と呼ばれました。 ヤマが、人々に冥界への道を示したというのはどういう意味があるのでしょうか。一見、冥界への道を示すというのは、あのおそろしい地獄へ人々を追い落とそうとするように思われますが、取り返すことのできないこの世での失敗を悔い改める機会を与えてくれたと考えれば、ヤマはその身を捨てて、人々に救いの道を示してくれたということになります。 仏教になってからは、ヤマのこうした慈悲の心を取り上げて、夜摩天、焔摩天、閻魔天などと漢訳の経論にも登場し、お地蔵さまの化身であるとまで言われるようになります。そして、人々を広く救うところから、法王とも呼ばれるのだと言われます。『瑜伽論』という書物に「人々が地獄に落ちた時、なぜ地獄に落ちたかを分かっているものには、閻魔王はことさら教えをさとすことはないが、地獄に落ちたわけがわからないものに対しては、閻魔王はきびしく教えをさとす」とあります。あの怖い容貌の裏には、どうしても悪い心を改めさせ、本当の救いを与えずにはおかないという、深い深い慈悲の心がたたえられていることがよくわかります。 また『長阿含経』では、閻魔さまは「老」「病」「死」の三人のお使いをつれていて、罪あって前に引き出されたものに対して、「いま、汝が罪を受けるのは、父母の過失でもなく、兄弟の過失でもなく、天の神のさしがねでもなく、先祖の過失でもなく、汝を取り巻く人々の過失でもない、汝自らの悪い行いによって罪を受けているのである」と断罪されるとあります。閻魔さまの慈悲を信じ、すなおな心で生きたいものです。
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