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教えてください 投稿者:かめせんにん 投稿日:2007/02/13(Tue) 17:33 No.66  
般若心経の後半部分「羯諦羯諦波羅羯諦・・・」は真言と呼ばれていて、サンスクリット語による般若心経原典の発音に似た発音をする漢字を当てはめたもので、漢字そのものに意味はないとされています。真言は自分の「思い」をその上に乗せて仏へ直接届けるためのことば、自分の思いが手紙だとすると、真言は住所が書かれ切手が貼られた封筒のようなものだと解釈するのは間違いでしょうか。もしそうだとすると、真言は祈りの持つ力、祈りを声に出して発することの力が原点にあるのでしょうか。それとも無心に祈ることによって自分自身が無になる、つまり心経前半の内容を観得することを目的としているのでしょうか。

般若心経からは離れますが、護摩も祈りのパワーというものが原点にあるように思います。どうか教えてください。お答えが上記の根本的な否定になってもかまいません。





Re: 教えてください お寺の和尚さん - 2007/02/13(Tue) 23:07 No.67  

かめせんにん様

おっしゃる通り、般若心経の結句(後半部分)は真言です。
ただ真言と言っても、内容によって数種類ございます。
一番ポピュラーんなものが、仏様の名前をサンスクリット語でお呼びするもの。

般若心経の結句のように、それまでのお経の内容を、集約してもう一度念押しのように唱えるもの。
ただし、漢文のお経の中に、真言がそのまま組み入れられているお経は、般若心経だけ。と聞いております。

真言と言えるかどうか解りませんが、「陀羅尼」(だらに)と言われる、サンスクリット語そのままで書かれているお経も我々は使用いたしております。

このようなことから考えますと、「真言とは」ある時は、封筒の役をなし、ある時は、仏様そのものであり、またある時には祈りのパワーにもなると言えるのではないでしょうか。

次に護摩についてですが、小生は護摩は祈りそのもの、と思っております。
ご存知かもしれませんが、護摩とは、あの炎の中に本尊様をお招きし、おもてなしをし、参拝された方々の諸々の願いを聞いていただく、という修法です。
ですから、当然、修法をしている僧侶は、本尊様と一体化して、参拝者と本尊様の中継ぎ役をしているわけです。そのためにただひたすら仏様の名前・真言を唱え続けるのです。



ありがとうございます かめせんにん - 2007/02/15(Thu) 19:49 No.69  

住職 様

早速のご回答ありがとうございます。
わかったような、わからないような・・・というか真言というのは言葉の臨界点を超えているものなのだろうとしか私には理解できません。別な入り口からアプローチすることにします。般若心経は深い教えから浅い教えまで何層にも重なっているといいます。ひろちさや氏は解説の中で「こだわな」と一喝しています。おそらくこれが最も平易な解釈でしょう。顕教部分の実践によりいつか真言の持つ意味にたどり着けないものだろうかと思います。
護摩についてはわかりました。護摩の祈りそのものがどのようなものであるか知る由もありませんが、「祈る」ことのできる人に真摯に託すというのは理解ができます。今まで読んだ本は難解でさっぱり解りませんでした。




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Modified by isso