般若心経の後半部分「羯諦羯諦波羅羯諦・・・」は真言と呼ばれていて、サンスクリット語による般若心経原典の発音に似た発音をする漢字を当てはめたもので、漢字そのものに意味はないとされています。真言は自分の「思い」をその上に乗せて仏へ直接届けるためのことば、自分の思いが手紙だとすると、真言は住所が書かれ切手が貼られた封筒のようなものだと解釈するのは間違いでしょうか。もしそうだとすると、真言は祈りの持つ力、祈りを声に出して発することの力が原点にあるのでしょうか。それとも無心に祈ることによって自分自身が無になる、つまり心経前半の内容を観得することを目的としているのでしょうか。
般若心経からは離れますが、護摩も祈りのパワーというものが原点にあるように思います。どうか教えてください。お答えが上記の根本的な否定になってもかまいません。
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