お正月にはどこのご家庭でも注連縄を新しくしたり、暖簾をかけかえたり、障子を張り替えたりして気分を一新しますね。ところで皆さんは注連縄と暖簾が同じ起源を持つことをご存知でしょうか。神仏をお迎えする場所は清らかである必要があり、仏道修行をするのも、傷害なきよう、魔を避ける清浄な場所を求めることが大切です。この一定の区域を定めて界を設けることを結界すると言います。
はじめは只、縄を張りめぐらすだけでありましたが、縄に藁を下げるようになり、木綿を下げるようになり、さらに四手という紙を下げるようになったのがいわゆる注連縄です。また、昔、禅寺では座禅をする清浄な場所の出入り口に廉を下げて結界していましたが、冬は隙間風が入って寒いため、代わりに布の幕を用いるようになりました。これが暖かい廉つまり暖簾になったわけです。注連縄も暖簾も結界をすることにかわりはありません。その後、暖簾のほうは一般にも用いられるようになり、商家ではこれに屋号を染めぬいて店先に下げるようになりましたし、さらには家庭内でも部屋や廊下の仕切りに装飾的に下げられるようになったのです。のれん分け、のれんを守る、のれんに腕押し・・・などという言葉も生まれてきました。
結界の語も普及し、嫌な人や物を近づけないことを結界すると言ったり、結界という名の「仕切り目に置く置物」まで出てきたようです。とにかく結界の原点は、清らかさを保持し、魔障を遠ざけるためのものでありました。神仏に関することだけでなく、私たちの日常にもこの結界は大切と言えるでしょう。たとえば、子供たちは結界の中で育てる方が良く、しかも、テレビ番組やマンガ本などの俗悪情報等は、無防備な結界の中に直に入ってくるものですから、心してチャンネルを選ぶ必要があると言えるのではないでしょうか。 |
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みなさん、ご自分で植物の種を蒔き育てたことありますか。本格的に大きな畑で育てた方、小さな植木鉢やプランターで、ベランダや窓辺で楽しんでいらっしゃる方、さまざまかと思います。
米麦に豆、なたねにかぼちゃ、朝顔やチューリップ、梅や栗、それに杉の実などさまざまな種をたくさん集めて、それらを一所の苗床に植えたと想像してみてください。大きな種から大きな苗が育つとは限りません。杉の実はあんなに小さくても成長すると、見上げるような大木になります。
種のことを種子といいますが、種子は植物に限らず動物にも、あらゆる事物にもあるのです。私たち人間の心の中にもちゃんとあるのです。 仏教で種子とは「現に存在する事物の勢力をとどめ、再び事物が存在することを可能にする原因」、つまりものごとのもとになっているもののことをいいます。 人間の心の中にある種子は、意識のずっと奥にしまわれています。意識の扉を開くとマナ意識があり、マナ意識の扉を開くとアラヤ意識があって、種子はその奥にあるのだそうです。この種子は菩提心と同じものであり、悟りを求める心なのです。心の本性はこの種子であるといえましょう。
皆さんは、仏・菩薩が種字という梵字一字で表されていることをご存知でしょうか。私たちの心の中にはみんな仏さまの種子(仏性)が宿っておりますので、これを育てれば誰でも仏さまに成れるのです。道元禅師は「一日の行事是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」とおっしゃていますが、一日一日を精一杯生きることでこの種子を育て、花を咲かせるとともに、しっかり実を結ばせたいものです。 また、家庭や学校は子供たちの苗床です。次代の種子もしっかり育ててやりましょう。
天台宗では来る平成18年に立教開宗1200年の慶年を迎えるにあたり、「あなたの中の仏にあいに」というスローガンのもと、さまざまな諸行事を行っております。皆様もお近くの天台宗のお寺を訪ねてみてください。ご住職と仏の種子について語り合ってみてはいかがでしょう。
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「はきだめにえんどう豆咲き 泥池から蓮の花が育つ
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人皆に美しき種子あり 明日何が咲くか」
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安積得也詩集[一人のために]より
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「お元気ですか」「はい、おかげさまで」と言った挨拶をよくします。この かげ とは何でしょう?もちろん「あなたの力添えで」と同義の「おかげさま」もあります。しかしこのような場合はそうではなさそうです。人や物事の恩恵をかげと言うのもピンときません。
かげとはかげにあって目に見えないもの、つまり神仏やご先祖様の霊のことなのです。日本人の宗教は原始以来、アジア全体に分布するシャーマニズムにその源を発し、祖先崇拝と結びついて我が国特有の神道や仏教を発達させてきました。 仏教は本来シャーマニズムとの縁はなく、祖先崇拝の宗教でもなかったのですが、日本人に深く取り入れられると共にそれらと習合してきたようです。もっとも、シャーマニズムを成立させているのはシャーマンと呼ばれる霊媒師たちであり、仏教の僧侶がシャモンと呼ばれるのはその仲間だったという考え方もあるくらいです。
ところで、日本仏教が直接霊と結びついたのは、飛鳥時代のころ、盂蘭盆経によって亡霊をなぐさめたのが始まりとされています。また、お寺では位牌に霊位と書き入れ、先祖供養をしますが、これは仏教で悉有仏性を説く以上、死者も証覚の仏位と見なし、私たちに本来具わっている仏性をさらに光らせて、冥路の厄難を救おうとしているのでしょう。
お盆に精霊棚をかざりご先祖様を迎えると共に、施餓鬼会をして自分のご先祖様以外の諸霊にも供養する習慣は、尊い行事と言えるでしょう。
神仏やご先祖様、三界万霊はみなこれを喜び、さまざまなご利益を私たちに授けてくださるというわけです。本当に「おかげさま」です。 |
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「あの人は上品だ」とか「品がある」とかほめ、また「下品なまねはするな」となるようです。この上品とか下品というのは一体何から来た言葉でしょう。
阿弥陀様の世界、極楽往生の教えにこの上品、下品が出てきます。この品、仏教読みではぼんと読みます。したがって上品下品と読んでいたのですが、いつのまにか上ひん下ひんとよまれるようになったようです。また、ヒンが良いのは人間で、シナが良いのは人間外といった、読み方による区別も出てきたようですが、とにかくその元のお話をいたしましょう。
仏教ではその人の出来によって上品、中品、下品に分け、さらにそれぞれを上生、中生、下生に分けております。つまり九段階に人間を分け救済しているわけです。上品上生といえば文字通り品格があって、仏さまに近いくらいに出来の良い人ですし、下品下生といえば全く救いようのないくらいだめな人をさします。しかし「仏身は法界に充満し晋く一切群生の前に現ず」という回向に見られるように、仏さまはどんなすみずみにも現れて私たちを救ってくださいます。学校でも五段階とか十段階とかの評価があり、子供を区分けしているようですが、ただ分けっぱなしでは困ります。
仏さまは昔からその人の気根(程度)に応じた教え方で、確実に下品から上品へと引きあげていって、最終的にはみんな成仏させておりますが、学校の先生も最大公約数的な教え方ばかりでなく、仏さまを見習い、子供一人一人の前に現れて、一人一人を確実にひきあげるようにしていただきたいと思います。そうすれば、おちこぼれるどころか、みんな成仏ならぬ満点の生徒になろうというものですが・・。 |
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ある国語辞典には、「サバ」の字を魚の鯖に書き、鯖は二枚を一連として数えることから、数をごまかす意味になったと説明されています。二つずつ数えてゆくことを鯖読みというのだそうですね。
ここではもう一つの説をご紹介いたしましょう。
仏教では昔からご飯をいただく時「サバ」を取る習慣があります。「サバ」とは生飯(または散飯)の字をあて、余分に取り分けられたご飯をいいます。 ご飯が炊けましたらまず仏前にお供えし、次に自分たちがいただきますが、その時自分に盛られたご飯の中からご飯粒を数粒取り出します。これは、今こうして食事ができることを感謝し、自分だけがそれを食べるのではなく、鬼神や餓鬼、畜生など餓えに苦しむものすべてに分かち与えようというものであり、上は三宝から下は六道にあたるものにまでこれを及ぼして仏道を成ぜんとする行為に他なりません。
取り分けられた「サバ」は後で寄せ集めて「サバ」台に乗せたり、川や野に投げられて供養されます。ご飯を作る時にこの「サバ」の量をあらかじめ計算し、それをプラスして用意すればこれが本当の「サバを読む」ことになりますね。
残念ながら今日「サバを読む」人は、それを自分に振り向ける分としてだけ考えて(利己主義)いるようですが、「サバ」は[平等利益]の心で他に振り分ける分としてとるものであることを覚えておきましょう。食べ物を多少余分に用意して、自分たちはもちろん、目に見えないものにまでおすそ分けする習慣は、まさに仏さまの心、思いやりの心を喚起する美しい習慣といえましょう。 また、少ないものでも、少しずつみんなで分けていただくことも大切ですね。 |
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「どうか堪忍してください」「いいや勘弁ならねえ」と、私たちがどこでも聞かれるような喧嘩言葉を文字にしてみました。
さて、皆様は何か気づかれましたか。そうですね、「堪忍」と「勘弁」は全く同義のように使われ、一つの会話としてやり取りされていますが、字も違えば意味も違います。
現在は両方とも「他人の過ちを許す」ことくらいにしか用いられていませんが、結果的にそうなっただけで、元々は全然違う言葉なんです。 「堪忍」の堪は、「たえる」という字で忍は「しのぶ」ですから、苦難を堪え忍ぶのが「堪忍」ですね。 この語は古来、インド語の娑婆の漢訳語として使われ、娑婆世界を堪忍世界と言いならわしてまいりました。私たちの住むこの世界は本当に堪え忍ばなければならない苦難に満ちている、といえましょう。どんなつらい思いをしても堪忍袋の緒を切らぬようにすれば、めでたく修行が成就して、次には極楽浄土に生れることができるというわけです。ならぬ堪忍するが堪忍ですね。
また、その修行ができたかどうかを見るに、昔の中国禅宗では、師家が修行者をテストする風習がありました。「勘弁」の勘は「つきあわせて調べる」こと、弁は「わきまえて区別する」ことですから、「勘弁」とは「よし合格!」ということで、おさとりの印可を与えることです。
喧嘩で相手に堪忍を乞うのはしのんでくれと頼むことであり、相手を勘弁するのは、これだけ謝っているのだから、情状酌量してよいことにしてやろうか!ということであったと思います。
人間は修羅ではありません。「恨みは恨みによって報いられるものではなく、ただ恨みを忘れることによってなくすことができる」と教典に示されております。堪え忍ぶとともに、相手の仏性に免じて勘弁してあげましょう。この心は、現在日本だけでなく、地球上全人類が改めて思い起こし、実行していただきたいものです。 |
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意識する、意識不明だ、意地がある。意地っぱりだ、意地が悪い、など、意識や意地のつく言葉は沢山ありますが、これも仏教用語です。
私たちは眼耳鼻舌身という前五識、つまり五感によって外界をとらえ、それを第六感である意識に取り入れて思考していますが、意識とはこの取り入れてものをよく考え判断する心のことです。また、この意識が個人存在の全体を支配し、人格を成立させる根元であることから、その心を意地ともいいます。ですから意識と意地は同じものを、見る角度によって言いかえただけのものなのです。
ところで意識や意地は有るのが当然で、無かったら大変だと思うのですが、般若心経では無眼耳鼻舌身意となっていて、この五感や意識を否定しております。また、曹洞宗を開かれた道元禪師も「心意識の運転を停(や)めよ」とおっしゃています。無意識人間や意気地なしになれというのでしょうか。そんなことはありません。実は意に悪いくせがありまして、へたに意識したり意地を出したりすると、煩悩に犯されて本物をとらえられなくなってしまうのです。貪り、瞋り、愚さ(貪瞋愚)は意にからみつく三毒煩悩であり、意地の三戒といって、特にこれだけを戒める戒律もあるほどです。
心意識の運転を停めよというのは、ボーッとせよということではなく、世俗的で間違いだらけの意識など捨てて、とらわれを離れた無位の真人になれということでしょう。意識(意地)をそこまで高めていければ、菩薩さまのような人間になれるということです。 |
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まさに仏教から発生した日常語ですね。
馬の耳に念仏を聞かせても、馬は念仏の有難さなどわかりませんから、「いくら意見しても何にもならない」ことの喩えになったのでしょう。他にも「猫に小判」「豚に真珠」というのもあります。その価値がわからないものにとっては、邪魔ものにすぎません。
馬や猫や豚がこれらの言葉を聞いたらなんと言うでしょう。「それは我々のことじゃない。人間のことだよ」と言うに違いありません。
私たちの周りには、神さまや仏さま、ご先祖さまが大勢おられ、常に私たちを見守るとともに、導いてくださっています。ところが私たちはそれがわかりません。わからないどころか、神仏を邪魔なもののごとくに考えている人も大勢います。最近では
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合 掌 |
、守護神・守り本尊・守護霊などという言葉が一般によく使われ始めましたが、守ってもらっているということを本当に自覚し、感謝すべきではないでしょうか。神仏は、天地自然をとおして私たちを守り、真理・法則を教えておられますが、この真理法則を文字にしたのがお経です。
私たちも念仏がちゃんと念仏に聞こえ、天地自然をとおしての神仏の教えが、シッカリ身につくような心がまえで暮らしたいものです。
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悪い行いを改めて、善い人となり堅気になることを『足を洗う』と言います。
昔インドの僧は、托鉢をするのに素足で歩き、寺にもどると足を洗ってから修行をしたり、法談をしました。世間を歩きまわることと、寺で修行をすることを明確に別けていたのです。寺の外は迷いの世界で、寺の中は救いの世界であり、足を洗って修行することは、不安の世界から安心の世界に住み替えることになるのです。
泥棒や、暴力団・悪徳商売などをやめることは、これらのものから離れること、即ち不安やうしろめたさ、重苦しさから離れ、前途に安心があります。
『足を洗う』ということは、心を洗うこと、よく懺悔してすべての罪を洗い落とせば、迷いの世界を出て極楽浄土に生れることも可能です。 足を洗ったすがすがしい気持ちで、毎日を過ごせたらこれに勝る幸せはありません。また、たまには文字通り足を洗って寺を訪ね、修行したり、御住職の話に耳を傾けたりしてほしいものです。 |
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新しい年の初めに、「今年こそ、何々をはじめよう。」とお考えになった方も多いと思います。
「一念発起して始めた。」などとよく使いますよね。一般的には何か新しいことをやろうと、心に決めてすることを「一念発起」と言いますが、これは仏教用語なのです。
「一念」とは、きわめて短い時間のことで、「発起」とは、発起発菩提心の略です。仏さまの教えを聞いているうちにひらめきを得て、一瞬のうちに菩提心を起こすことです。菩提心とは、悟りを求めて仏の道を歩もうとする心で、人のため世のために尽くそうとする心も加わります。
時代と共に、仏の道にかぎらず、良いことを思いつき、いままでの考えを改めてそれをする、と言う意味に変わってきました。
どちらにしても、「一念発起」することは素晴らしいことです。年間を通していつでも一念発起することは出来ますが、ちょうどお正月、新しい年の始まりでもありますので 、正真正銘の「一念発起」をして、徳を得られる計画を立てられたらいかがでしょう。
種を植えることも、育てることもせずに、ただ収穫のみを追求する人が増えているこの時代にこそ、ぜひ、徳を育てる計画を立てたいものです。

「今月の言葉」 前回までは、様々な仏さまを題材にしてまいりましたが、今月からのシリーズは、加藤朝雄著「暮らしの中の仏教語」という本の中から、一言づつ題材にさせて頂きます。 |
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