H19.12月のことば 「おれ・おのれ・われ」
 今年も残りわずかとなってまいりました。そろそろこの一年を振り返っている方も多いことでしょう。マスコミもこの一年を総括する内容の記事・番組が多くなってまいりました。

 ご自分を指すとき男性の方のほとんどは、おれ(・・)という言葉を使います。また文章にする時はおのれ(・・・)を使うこともあります。しかし、われ(・・)というのは現在ほとんど使われていません。

 これらの語は、今では一人称男性を指す言葉として使われることが多いようですが、昔は、二人称としても、女性にも使われました。人称や性に関係なく、自分以外のものに対しては自分自身、全体に対しては個々をいう語だったということですね。おれ(・・)おのれ(・・・)を漢字にすると()となり、己界(こかい)といえば自分自身の世界を指します。この己界がどのようになっているかは重要な問題だといえましょう。「一切のものはだだ自分の心の現われたもの」だからです。それ故、自分が地獄に住むのも極楽に住むのも自分の心次第となります。阿弥陀(あみだ)様も極楽浄土も、自分の心が現わしているものに他なりません。この阿弥陀さまを<己心(こしん)弥陀(みだ)>と申します。

 また、われ(・・)は漢字にすると我で、行為の主体としての自己をさします。永遠不滅の本体と言ってもよいでしょう。仏教では、()()の存在を積極的に認めておりますが、仏教的には、「(おの)(いま)(わた)らざる(さき)一切衆生(いっさいしゅじょう)(わた)さん」という()であり、天地・真理と一体になった大我(たいが)でなければなりません。

 ところで良寛さんの逸話にこんなのがあります。良寛様は忘れっぽくて、よく自分の持ち物をどこかへ置いてきてしまうのです。そこである人が「良寛様、自分の持ち物に名前を書いておかれたらいかがでしょう」と言いました。良寛様はすなおに自分の持ち物におれがの(・・・・)おれがの(・・・・)と書き込んだそうです。
文中の写真は初冬の境内

 持ち物に個人名を書くのは執着のあらわれですが、なるほどこれなら誰が持ち歩いても通用しますね。さすが良寛様です。私はこの話を知った時、「古本を売ったところ、個人名が記入してあったため二束三文だった」ことを思い出しました。小我(しょうが)を捨てて大我(たいが)をとり、小己(しょうこ)を捨てて大己(たいこ)をとる。そして自分の命を全体に和合させて大人物の道を歩むことに致しましょう。


H19.11月のことば 「無 縁(むえん)」
 「私とあの人は無縁です。」「縁がなかったものとあきらめてください。」などという会話を耳にします。この無縁も仏教語ですね。仏教でいう本来の無縁は、仏縁のないこと─特に今迄において仏さまと縁を結んでいなかったことを申します。「縁無き衆生(しゅじょう)()し難し」の句のとおり、仏・菩薩との縁が無いことは救われる機縁が少ないことであり、悲しいことです。

 でも仏さまの慈悲は広大ですから、「無縁の大悲」ということがあることもお伝えておきましょう。仏さまは、縁あるものを救うことはもちろんですが、対象を特定せず、(あまね)く一切の衆生に慈悲を(さず)けることもなさるんですね。

 「観音の大悲、法界に()せて有情(うじょう)を救うなり」とは霊異記(りょういき)にみられる文ですが、仏さまは、差別なく一切衆生に対して起す絶対平等の大慈悲心をお持ちなのです。

 ちょうど、お日さまが誰かれの差別なく、あたたかく照らすように。あるいは慈雨が誰かれの差別なく全てのものを(うるお)すように、仏さまの慈悲は無条件で平等です。

 ただ、その受け取り方に差異があると言えるでしょう。植物によって日光や雨のとらえ方に差があるように、人もまた(おの)が心によって受け取り方を違えてしまうと申せましょう。しっかりと仏さまの方を向いて暮らしたいものです。
文中の写真は11月中旬の境内

 ところで、この無縁が普通語として一般に使われる時、単に(ゆかり)の無いこと・つながりの無いことをあらわすようですね。「無縁仏(むえんぼとけ)」などという造語は、仏教語本来の意味を無視した言葉で、死後を(とむら)う縁者のない亡者を指します。亡者はいずれ仏に成る者ですが、そのままでは、仏としての縁が無いのを見れば、この使い方も許されるのかもしれませんが…。とにかく、私達は無縁仏になどならぬよう、仏さまとの縁を大切にして、子孫繁栄をはかって行くことに致しましょう。

H19.9月のことば 「出家・在家(しゅっけ・ざいけ)」
 長らくお休みしてしまい誠に申しわけございませんでした。

 今月より再会させていただきますので何卒よろしくお願い致します

 過日、当山の大黒が出家得度を受け法名を授かり、新たな気持ちで毎日本尊さまにお仕えしております。  そこで小生も40数年前に得度を受けた時を思い出し、改めて出家と在家についてお話いたします。


 出家(しゅっけ)とは家を出るという意味ですが、もちろん家出(いえで)とは違います。家庭という性や職業等の(しがらみ)がある俗生活を離れ、修行者の仲間となって専心に真理を求めること、またその人を言います。これに対して在俗(ざいぞく)のままで真理を求めることやその人を在家(ざいけ)と言うわけです。
 出家は時代を経るにつれて意味が変わり、「家を出て仏門にはいること」から転じて、「僧侶になること」「僧侶の通称」となり、現代には職業欄に僧侶と書くことが当たり前でピッタリのような家族持ちの僧侶が、出家と称してはばからない時代となったようです。しかし、ここでは本来の出家についてお話したいと思います。
 お釈迦さまは文字通りの出家の後、成道(じょうどう)し、その後故国に帰られて釈迦族を教化なさいましたが、その時、お釈迦さまの従弟である阿難(あなん)が出家して弟子となられました。そして同時に、釈迦族に仕えていた首陀羅(ずーどら)階級の優婆離(うばーり)も出家しております。ご存知の通りインドは階級差別のはげしい国ですので、お釈迦さまが貴賎(きせん)の別なく、賎民(せんみん)階級である首陀羅出身の優婆離を出家入門させたことが問題となりました。出家するということは生みの親の階級を離れて、釈尊(しゃくそん)の弟子つまり釈子(しゃくし)となる訳ですからです。でもお釈迦さまは批判をよそに、入門を許され、あらゆる弟子を平等に大切になさいました。仏教教団は只、真理を求める者の和合衆(わごうしゅう)でなければならないのです。この優婆離はのちに立派なお坊さんとなり、持律(じりつ)第一と言われるま
文中の写真は9月の境内
でになりました。一方阿難は王族出身ということがかえってわざわいしてか、多聞(たもん)第一と言われながら、悟ったのは釈尊入滅後だったということです。
 階級差別の厳しかった昔に平等を唱えられたお釈迦さまの偉大さを讃え、あわせて「出家」の本来の意味を考えなおしてみたいものです。


ここ



H19.7月のことば 「摩訶・バカ」
 バカを漢字に書くと馬鹿とするのが普通ですが、摩訶とする時もありますね。実はこの二つの語は全く違うことを表す仏教語・モハーとマハーを音写した当て字です。

 摩訶(バカ)は大きいとか多いとか(すぐ)れていることを表す語で、他の語に()えてその意を付け加える言葉です。摩訶般若といえば偉大な智慧のこと、摩訶不思議といえばとても不思議なことを表すなどがそれですね。これが会話に使われると、「バカ賢い」とか「バカ不思議だ」「バカ暑い」等と、程度のはなはだしことを付け加える形容語句となるわけです。新津地方は、このバカがやたら多く「バカうまい」「バカきれい」「バカ早い」等とポンポンとび出してきます。「バカに・・・だ」と「に」を入れる場合も多く聞かれますが、地方によるようです。
 さて、私達が「バカ」という語を耳にした時、どちらのバカか、つまり、モハー(愚か)の方か、マハー(大・多・勝)の方か、考えながら聞く必要がありましょう。長い歴史の間にもモハーもマハーも一緒となり、馬鹿、摩訶・莫伽・婆伽などと音写され、今ではあたかも、一語中にまるで別な二つの意味が同居するように思われております。
 でも、無理に原点に帰ってこれを分けることもないでしょう。バカ(ぢから)のバカはどちらのバカか。そんなことで悩むこともないでしょうから・・・。
 ところで余談ですが、今使われているバカの漢字、馬鹿(・・)は日本で当て字されたものであり、バロクとしか読めません。湯桶(ゆとう)読みや重箱(じゅうばこ)読みというのもありますが、馬鹿をバカと読むのはバカげた読みとして定着したのでしょうか?
文中の写真は「梅雨の境内}

 今回は、バカに二種類があり、その語源はマハーとモハーというインドの言葉であったことだけ知って戴ければよろしいと思います。
H19.6月のことば 「万 歳」(ばんざい)
 おめでたい時によく万歳という言葉がだされます。よく三唱もされる万歳ですが、実はバンザイと発音されるようになったのは明治以降のことで、それまではバンゼイと読みならわされてきました。禅宗では現在に至るも習慣的にバンゼイと発音し続けております。

 バンとゼイなら漢音同志ですが、歳を()音でザイというからには万もやはり呉音でマンでなければなりません。つまりバンゼイかマンザイですね。新発明の読み方成立とは、それこそ漫才のネタになりそうですが、バンザイに慣らされた今となってはバンザイが正しい読みなのでしょう。

 とにかく、この万歳、本来は中国で用いて来られた祝賀の言葉で、このめでたさがいつまでも続くようにといった意味です。禅宗では祝国開堂という法会(ほうえ)をしますと、国家昌平と聖寿万歳をまず祈りますし、首座(しゅそ)法戦式(ほっせんしき)の問答にはこの万歳が結びの句となります。たとえば、問=正師に相見する時如何(いかん)、答=容顔を見ることなかれ非を嫌うことなかれ。問=珍重(ちんちょう)、答=万歳、といったぐあいです。

 お寺というと何か暗いイメージがつきまとい、めでたいことをしては気がひけるように思っている人もあるようですが、本来は福を招くめでたい所です。お寺へ初詣に行って万歳を唱え、今年の幸を祈りましょう。
 本堂正面に「祈祷」という額をかかげているお寺があるように、今上(きんじょう)天皇をはじめ、全国民の幸福を千代に八千代にと常に祈祷しているのがお寺です。
H19.5月のことば 「ご馳走さま」(ごちそうさま)
 「ご馳走さま」というと、いまでは食事のときの言葉と思われておりますが、その字を見ると、どうしてそんな言葉になったのか不思議ではありませんか。

 馳走とは馬車を(はや)くかけ走らせるとか、年月が走るように過ぎ去るという意味です。古文書(こもんじょ)に出てくる馳走は、だいたいそのような意味で使われています。これが、人をもてなす(・・・・)意味に用いられるようになったのは、日本だけの、それもかなり時代が新しくなってからのことらしいのです。

 もちろん、食事を用意するためには材料を求めたり煮炊(にた)きをしてかけまわることから、食事などのもてなしをする意味に変化したのでしょうが、そんな意味に日本人の心を考えてみましょう。お坊さんは食事の時おとなえごとをしますが、その五観の()の第一に「(こう)の多少を(はか)り、()来処(らいしょ)(はか)る」という文句があります。これは「多くのおかげを思い、感謝していただきます」という現代風に言いかえられたいますが、この心が「ご馳走さま」の心ですね。

 ご馳走さまだけではなく、お世話さま、ご苦労さまなど、日常よく耳にする挨拶(あいさつ)言葉はその多くが、相手の立場に立ってその労をねぎらい感謝する言葉です。日本人の美しい言葉(・・・・・)としては、まず「ありがとう」が第一にあげられるそうですが、これもありがとうにおとらず美しい言葉といえるでしょう。

 自分が多くのおかげをいただき、生かされている。だからそれらに感謝せずにいられない。こういう日本人の生き方を大切にしたいものですね。感謝の言葉にはきっと美しい花が咲いてゆくことでしょう。
H19.4月のことば 「空・真空(くう・しんくう)」
 空は空間の語が示すように何もないということであり、真空とはその中に空気さえもない全くの空っぽをいいますね。

 ところで、この空も真空も元は仏教語です。では仏教でいう空とは何でしょう。物事はすべて因縁によって生滅するもので、物事の実体などないということを空と表現します。たとえば水と氷と水蒸気はそれぞれ液体・固体・気体に分かれますが、同じものの変化した姿ですね。ではどれが実体でしょうか。形あるものが実体なら氷が実体となりますが、首をかしげる人も多いでしょう。また、見えないものは存在しないというなら、部屋に除湿機をかけて得られる水は、無からとれる不思議な産物となってしまいます。私たちは、水・氷・水蒸気などと変わりゆくものに実体を求めてはなりません。それぞれが仮の姿であって、物事の実相はすべて空であることを知るべきです。この空を会得した境地から出る智慧を真空の妙智といいます。真空とは実相そのもので、私たちが相対間観を離れ、思慮分別をやめて真実をそのままとらえるならば、この妙智を手にすることができるでしょう。空とは、事実を否定するものでなく、偉大なる肯定なんですね。
「暮らしの中の仏教語」加藤朝雄 著より
 何かを手にしっかりと持っている時は、決して次の物を持つことはできません。手を離すことによって、はじめて次の物を持てるのです。常に手を離していれば、常に自由に物を持つことができます。空を手にしたら今度はその空を捨てること、これこそ本当の空ですね。真空パックの中でも繁殖できるばい菌があるのですから、用心にこしたことはありません。何だか分かったような分からぬようなことをいいましたが、とにかく何かにとらわれることをやめて、大空のような心で生きることにいたしましょう。





文中の写真は「玄奘三蔵塔」
これは、さいたま市岩槻区(旧岩槻市)の、慈恩寺というお寺にある、孫悟空で有
名な「西遊記」のモデルになった、三蔵法師のご遺骨が埋葬されているご廟です。
H19.3月のことば 「品 位(ひんい)」
 「品位(ひんい)がある」というと、その人に清廉(せいれん)さや高尚さが(そな)わり、尊敬に(あたい)する人格があることを想起させますね。品位とは(ひん)が具わっている(くらい)ということでしょうか。

 (ひん)は呉音でホンとも読み、書物の章を表すほか、種類や性質、等級などをひろく含む言葉で、品の上のものを上品、下のものを下品と言います。

 ところで禅宗で「品位(ほんい)」というと、亡くなった大和尚様の位牌(いはい)の下部に記す文字となっています。一般の人が亡くなった場合は「霊位(れいい)」又は唯「()」と書くのに比較して、大和尚には品位(・・)があるとするのでしょうか。この品位(ほんい)は天皇家に関しても使われてまいりまして、親王(しんのう)内親王(ないしんのう)に与えられる位階としても通用しております。仏教での品位が九種類あるのに対して、天皇家の品位は四種類なんだそうですね。
  又、鉱石中の金属含有率を品位と言うそうですが、この場合はヒンイと読むのがならわしということです。

 ホンイなのかヒンイなのかはともかくとして、私達としては出来る限りの品位を保ち、それこそ品評会に出されても遜色(そんしょく)ないよう、普段に精進しておきたいものです。品位は生まれや育ちによって左右されるものではありません。同じ兄弟でも品のよい人、悪い人がいるではありませんか。品は自分の心次第で(くらい)が上下します。

 自分の心で考えることが口をついて出る言葉となり、更には行動となります。これを心口意(しんくい)三業(さんごう)と言っておりますが、心を清廉にし、高尚にし、教養あるものにしておけば、言動は自然に品のあるもの、品位の高いものとなりましょう。品位を上げ、品位を保つにはまず自分の心からです。品位の高い所にわが心を定着させるよう、常に精進したいものと念じてやみません。
合   掌
H19.2月のことば 「施 主(せしゅ)」
 最近、建築現場で「建築許可第○○号・・・・施主××」等と看板をよく見かけます。これはその建築現場が違法でないことを知らせるものでしょうが、小生は「施主」という語の使い方に少々疑問を感じております。もっとも、最近の辞典で施主の項を見ると、説明の3番目くらいに「建築・設計などの注文主」とも出ていますから、そんな意味での使い方も公認されてきたのでしょうか。しかし、本来は「布()を行う恵の()」すなわち仏教上の善行をして、僧侶や困っている人々に供養する人のことであることを忘れてはなりません。それが「財物を出して供養する当事者」をさすようになり、一般に依頼者や注文主をもさすようになってきたと思われます。

 それにしても、サンスクリット語のダーナ(旦那(だんな)檀那(だんな)檀越(だんのつ)と音写する)の意訳である施主が建築用語になろうとは・・・。言葉はかくも変わるものと感心せざるをえません。

 一方、旦那(だんな)そのものも、いまではかなり違う意味で用いられておりますね。奥さんが夫を旦那といったり、商売のお客さんを旦那といったり、村の金持ちを旦那といったり・・・。しかしいずれも元は「施す人」としてそう呼んだことが推測できるでしょう。そう呼んでくれる相手に金品を施さない若旦那はバカ旦那です。

 また、菩提寺(ぼだいじ)のことを檀那寺(だんなでら)ということがあります。この場合、お寺から施すものは「仏の教え」ですね。檀那なる寺は檀越(だんのつ)たる家、すなわち檀家に法の布施をし、檀家はお寺や僧侶に財の布施をする。ちょうど交換するような形ですが、これを財法二施といい、功徳(くどく)は無量です。是非本来の布施をなし、本物の旦那・施主になりたいものです。
合   掌

H19.1月のことば 「挨拶(あいさつ)」
 私たちが仲良く暮らしてゆく上で挨拶する習慣があるということは、なんとすばらしいことでしょう。もし挨拶というものがなかったら沈黙があるか、用件のみの、ぶっきらぼうな会話があるだけです。(うるお)いのないカサカサした毎日を暮らすことになるでしょう。「お早うございます」「ありがとう」「失礼します」「すみません」「おやすみなさい」。お互いに挨拶を()わすことで、たとえケンカしたばかりの二人でも、すぐに仲直りしてしまいます。

 挨拶の挨は軽く触れること、拶は強く触れることを意味し、はじめは禅宗のお坊さんの間で使われた言葉です。昔、禅宗のお師家(しけ)さまが雲水(うんすい)と問答をし、悟りの度合いを(ため)すことを挨拶といいました。ちょっと声をかけてみて、その返事によって悟りの度合いを計ったわけですね。それが転じて今日では一般に親愛の言葉を掛けあうことに、変わってきたわけです。

 挨拶は二人で述べあうわけですが、一体二人のうちどちらが先に声をかけたらよいのでしょう。本来は、「心のできている人」から、「修行中(しゅぎょうちゅう)の人」に声をかけるのが普通でした。不思議なことにこれはいまも変わらないようですね。先日、登校中の小学生に「お早う」と声をかけると「お早うございます」と元気な声が返ってきました。試しに次の小学生には知らん顔していたら、やっぱり知らん顔で通り過ぎてゆきました。

 大人同士の世界ではどうでしょう。たとえば(よめ)(しゅうとめ)とでは、どちらができている人か?

 先に声をかける人が偉い人です。お互いに競争で挨拶しあえば、家庭も世の中も一段と明るくなるでしょう。


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