バカを漢字に書くと馬鹿とするのが普通ですが、摩訶とする時もありますね。実はこの二つの語は全く違うことを表す仏教語・モハーとマハーを音写した当て字です。
摩訶(バカ)は大きいとか多いとか勝れていることを表す語で、他の語に添えてその意を付け加える言葉です。摩訶般若といえば偉大な智慧のこと、摩訶不思議といえばとても不思議なことを表すなどがそれですね。これが会話に使われると、「バカ賢い」とか「バカ不思議だ」「バカ暑い」等と、程度のはなはだしことを付け加える形容語句となるわけです。新津地方は、このバカがやたら多く「バカうまい」「バカきれい」「バカ早い」等とポンポンとび出してきます。「バカに・・・だ」と「に」を入れる場合も多く聞かれますが、地方によるようです。
さて、私達が「バカ」という語を耳にした時、どちらのバカか、つまり、モハー(愚か)の方か、マハー(大・多・勝)の方か、考えながら聞く必要がありましょう。長い歴史の間にもモハーもマハーも一緒となり、馬鹿、摩訶・莫伽・婆伽などと音写され、今ではあたかも、一語中にまるで別な二つの意味が同居するように思われております。
でも、無理に原点に帰ってこれを分けることもないでしょう。バカ力のバカはどちらのバカか。そんなことで悩むこともないでしょうから・・・。
ところで余談ですが、今使われているバカの漢字、馬鹿は日本で当て字されたものであり、バロクとしか読めません。湯桶読みや重箱読みというのもありますが、馬鹿をバカと読むのはバカげた読みとして定着したのでしょうか?
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文中の写真は「梅雨の境内} |
今回は、バカに二種類があり、その語源はマハーとモハーというインドの言葉であったことだけ知って戴ければよろしいと思います。 |
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おめでたい時によく万歳という言葉がだされます。よく三唱もされる万歳ですが、実はバンザイと発音されるようになったのは明治以降のことで、それまではバンゼイと読みならわされてきました。禅宗では現在に至るも習慣的にバンゼイと発音し続けております。
バンとゼイなら漢音同志ですが、歳を呉音でザイというからには万もやはり呉音でマンでなければなりません。つまりバンゼイかマンザイですね。新発明の読み方成立とは、それこそ漫才のネタになりそうですが、バンザイに慣らされた今となってはバンザイが正しい読みなのでしょう。
とにかく、この万歳、本来は中国で用いて来られた祝賀の言葉で、このめでたさがいつまでも続くようにといった意味です。禅宗では祝国開堂という法会をしますと、国家昌平と聖寿万歳をまず祈りますし、首座法戦式の問答にはこの万歳が結びの句となります。たとえば、問=正師に相見する時如何、答=容顔を見ることなかれ非を嫌うことなかれ。問=珍重、答=万歳、といったぐあいです。
お寺というと何か暗いイメージがつきまとい、めでたいことをしては気がひけるように思っている人もあるようですが、本来は福を招くめでたい所です。お寺へ初詣に行って万歳を唱え、今年の幸を祈りましょう。 本堂正面に「祈祷」という額をかかげているお寺があるように、今上天皇をはじめ、全国民の幸福を千代に八千代にと常に祈祷しているのがお寺です。 |
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「ご馳走さま」というと、いまでは食事のときの言葉と思われておりますが、その字を見ると、どうしてそんな言葉になったのか不思議ではありませんか。
馳走とは馬車を疾くかけ走らせるとか、年月が走るように過ぎ去るという意味です。古文書に出てくる馳走は、だいたいそのような意味で使われています。これが、人をもてなす意味に用いられるようになったのは、日本だけの、それもかなり時代が新しくなってからのことらしいのです。
もちろん、食事を用意するためには材料を求めたり煮炊きをしてかけまわることから、食事などのもてなしをする意味に変化したのでしょうが、そんな意味に日本人の心を考えてみましょう。お坊さんは食事の時おとなえごとをしますが、その五観の偈の第一に「功の多少を計り、彼の来処を量る」という文句があります。これは「多くのおかげを思い、感謝していただきます」という現代風に言いかえられたいますが、この心が「ご馳走さま」の心ですね。
ご馳走さまだけではなく、お世話さま、ご苦労さまなど、日常よく耳にする挨拶言葉はその多くが、相手の立場に立ってその労をねぎらい感謝する言葉です。日本人の美しい言葉としては、まず「ありがとう」が第一にあげられるそうですが、これもありがとうにおとらず美しい言葉といえるでしょう。
自分が多くのおかげをいただき、生かされている。だからそれらに感謝せずにいられない。こういう日本人の生き方を大切にしたいものですね。感謝の言葉にはきっと美しい花が咲いてゆくことでしょう。 |
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空は空間の語が示すように何もないということであり、真空とはその中に空気さえもない全くの空っぽをいいますね。
ところで、この空も真空も元は仏教語です。では仏教でいう空とは何でしょう。物事はすべて因縁によって生滅するもので、物事の実体などないということを空と表現します。たとえば水と氷と水蒸気はそれぞれ液体・固体・気体に分かれますが、同じものの変化した姿ですね。ではどれが実体でしょうか。形あるものが実体なら氷が実体となりますが、首をかしげる人も多いでしょう。また、見えないものは存在しないというなら、部屋に除湿機をかけて得られる水は、無からとれる不思議な産物となってしまいます。私たちは、水・氷・水蒸気などと変わりゆくものに実体を求めてはなりません。それぞれが仮の姿であって、物事の実相はすべて空であることを知るべきです。この空を会得した境地から出る智慧を真空の妙智といいます。真空とは実相そのもので、私たちが相対間観を離れ、思慮分別をやめて真実をそのままとらえるならば、この妙智を手にすることができるでしょう。空とは、事実を否定するものでなく、偉大なる肯定なんですね。
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「暮らしの中の仏教語」加藤朝雄 著より |
何かを手にしっかりと持っている時は、決して次の物を持つことはできません。手を離すことによって、はじめて次の物を持てるのです。常に手を離していれば、常に自由に物を持つことができます。空を手にしたら今度はその空を捨てること、これこそ本当の空ですね。真空パックの中でも繁殖できるばい菌があるのですから、用心にこしたことはありません。何だか分かったような分からぬようなことをいいましたが、とにかく何かにとらわれることをやめて、大空のような心で生きることにいたしましょう。
文中の写真は「玄奘三蔵塔」 |
これは、さいたま市岩槻区(旧岩槻市)の、慈恩寺というお寺にある、孫悟空で有
名な「西遊記」のモデルになった、三蔵法師のご遺骨が埋葬されているご廟です。 |
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「品位がある」というと、その人に清廉さや高尚さが具わり、尊敬に値する人格があることを想起させますね。品位とは品が具わっている位ということでしょうか。
品は呉音でホンとも読み、書物の章を表すほか、種類や性質、等級などをひろく含む言葉で、品の上のものを上品、下のものを下品と言います。
ところで禅宗で「品位」というと、亡くなった大和尚様の位牌の下部に記す文字となっています。一般の人が亡くなった場合は「霊位」又は唯「位」と書くのに比較して、大和尚には品位があるとするのでしょうか。この品位は天皇家に関しても使われてまいりまして、親王や内親王に与えられる位階としても通用しております。仏教での品位が九種類あるのに対して、天皇家の品位は四種類なんだそうですね。
又、鉱石中の金属含有率を品位と言うそうですが、この場合はヒンイと読むのがならわしということです。
ホンイなのかヒンイなのかはともかくとして、私達としては出来る限りの品位を保ち、それこそ品評会に出されても遜色ないよう、普段に精進しておきたいものです。品位は生まれや育ちによって左右されるものではありません。同じ兄弟でも品のよい人、悪い人がいるではありませんか。品は自分の心次第で位が上下します。
自分の心で考えることが口をついて出る言葉となり、更には行動となります。これを心口意の三業と言っておりますが、心を清廉にし、高尚にし、教養あるものにしておけば、言動は自然に品のあるもの、品位の高いものとなりましょう。品位を上げ、品位を保つにはまず自分の心からです。品位の高い所にわが心を定着させるよう、常に精進したいものと念じてやみません。
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最近、建築現場で「建築許可第○○号・・・・施主××」等と看板をよく見かけます。これはその建築現場が違法でないことを知らせるものでしょうが、小生は「施主」という語の使い方に少々疑問を感じております。もっとも、最近の辞典で施主の項を見ると、説明の3番目くらいに「建築・設計などの注文主」とも出ていますから、そんな意味での使い方も公認されてきたのでしょうか。しかし、本来は「布施を行う恵の主」すなわち仏教上の善行をして、僧侶や困っている人々に供養する人のことであることを忘れてはなりません。それが「財物を出して供養する当事者」をさすようになり、一般に依頼者や注文主をもさすようになってきたと思われます。
それにしても、サンスクリット語のダーナ(旦那・檀那・檀越と音写する)の意訳である施主が建築用語になろうとは・・・。言葉はかくも変わるものと感心せざるをえません。
一方、旦那そのものも、いまではかなり違う意味で用いられておりますね。奥さんが夫を旦那といったり、商売のお客さんを旦那といったり、村の金持ちを旦那といったり・・・。しかしいずれも元は「施す人」としてそう呼んだことが推測できるでしょう。そう呼んでくれる相手に金品を施さない若旦那はバカ旦那です。
また、菩提寺のことを檀那寺ということがあります。この場合、お寺から施すものは「仏の教え」ですね。檀那なる寺は檀越たる家、すなわち檀家に法の布施をし、檀家はお寺や僧侶に財の布施をする。ちょうど交換するような形ですが、これを財法二施といい、功徳は無量です。是非本来の布施をなし、本物の旦那・施主になりたいものです。
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私たちが仲良く暮らしてゆく上で挨拶する習慣があるということは、なんとすばらしいことでしょう。もし挨拶というものがなかったら沈黙があるか、用件のみの、ぶっきらぼうな会話があるだけです。潤いのないカサカサした毎日を暮らすことになるでしょう。「お早うございます」「ありがとう」「失礼します」「すみません」「おやすみなさい」。お互いに挨拶を交わすことで、たとえケンカしたばかりの二人でも、すぐに仲直りしてしまいます。
挨拶の挨は軽く触れること、拶は強く触れることを意味し、はじめは禅宗のお坊さんの間で使われた言葉です。昔、禅宗のお師家さまが雲水と問答をし、悟りの度合いを試すことを挨拶といいました。ちょっと声をかけてみて、その返事によって悟りの度合いを計ったわけですね。それが転じて今日では一般に親愛の言葉を掛けあうことに、変わってきたわけです。
挨拶は二人で述べあうわけですが、一体二人のうちどちらが先に声をかけたらよいのでしょう。本来は、「心のできている人」から、「修行中の人」に声をかけるのが普通でした。不思議なことにこれはいまも変わらないようですね。先日、登校中の小学生に「お早う」と声をかけると「お早うございます」と元気な声が返ってきました。試しに次の小学生には知らん顔していたら、やっぱり知らん顔で通り過ぎてゆきました。
大人同士の世界ではどうでしょう。たとえば嫁と姑とでは、どちらができている人か?
先に声をかける人が偉い人です。お互いに競争で挨拶しあえば、家庭も世の中も一段と明るくなるでしょう。 |
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