もうすぐ新しい年を迎えます。みなさま初もうではどちらへお出かけですか。それともご自宅で寝正月を決め込みますか。
当山では、厄除大師さまをお祀りしておりますので、厄除け・家内安全・交通安全等々所願成就のご祈願に沢山の参拝者がお参りいただき、大師さまの宝前で護摩を焚き、参拝者のご祈願をお受けいたします。
今月は、この「護摩」という言葉をとりあげて見ましょう。
「護摩」は梵語のホーマーの音写語で、古代インドの祭式の一つを指しました。つまり、炉で神木を焚いてこれに供物を投入するという儀式ですね。古代インド人は供物を火によって天に運んでもらい、神々に捧げようとしたわけです。
この護摩の儀式はやがて仏教へも採り入れられ、密教で盛んに行われるようになったのです。ただし、仏教では次のように意味づけられました。即ち「火」は智慧や真理を表し、「木」は人の煩悩や災難を表すというのです。木を火に投ずることによって、一切の煩悩・悪業を焼き尽くす一方、息災・増益・降伏などが得られるとされました。その考えが密教を通して今日に伝わり、護摩木に願いごとを書いて焚いてもらうというあの修法となったといえましょう。
また、古代インドでは戸外に護摩壇を築いて木を焚いたのですが、密教では、本堂の本尊前に小さな炉を設置し、ここで護摩木や供物(五穀・油・香華など)を焚くこととなりました。この護摩修法は日本でも大変な人気があり、お不動様を主に様々な仏様を本尊として修法されております。
でも中には、いかにももっともらしく修法はしているが、なんのご利益も現れない無能・無資格の行者もでてまいりました。これから、護摩す→護摩かすという言葉がでてきました。ごまかすとは、人目を欺いて不正を行うとか、相手の問いかけにまじめに答えないことを指しますね。いいかげんな修法で人をごまかすのはいけません。
又「弘法大師が焚いた護摩の灰だから、これを飲めばいかなる病も治る。」などと言って押し売りし、人々から金品をとる<高野聖>もあらわれました。これから「護摩の灰」が金品をまきあげる者を指す言葉となったそうです。残念ながら、ごまかすもごまのはいも、不真面目な行者から発想されてでてきた言葉ですが、私たちは本来の護摩修行をして、仏天のご加護を念じることに致しましょう。 |
合 掌 |
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お釈迦さまの時代のお話です。神通力を得た目連尊者が父母の乳哺の恩に報いようと思い、その神通力をもって今は亡き母親の所在を探しました。死後に趣くすべての世界をくまなく探したところ、なんとお母様は餓鬼道に落ちておられたのでした。目連は悲哀し、自分の鉢に飯を盛り、お母様に餉りますが、お母様が食べようとなさるとたちまち火になってしまいどうしても食べることが出来ません。目連はどうすることもできず、泣きながらお釈迦さまの元に帰り、このことを話ました。お釈迦さまは「汝の母は罪根深結なり、汝一人の奈何ともする所に非ず」とおっしゃて、救済の法を授けられます。それは<7月15日に一定の修行を終えた僧侶達が集まるから、このお坊さん達に供養して、母の為に回向してもらいなさい>というものでした。この回向によって目連の母は餓鬼道から脱することができたということです。餓鬼道の苦しみようはウランバナ(倒懸の意)と言い、逆さ吊りの苦しみに相当すると申します。中国ではこれに烏藍婆拏の漢字を当てて伝え、中国の祖先祭祀の習慣と結びつけて、死者の倒懸の苦しみを救う為に仏僧に供養する法会を成立させました。法会が定着するにつれて烏藍婆拏も発音上省略され、盂蘭盆となり、これが日本へ伝えられると、さらに盆だけとなり、おをつけて「お盆」と呼ばれるようになった訳です。日本では精霊会と一緒になって一般に広まったようです。精霊とは死者の霊魂のことです。精霊会は古来日本にあった習慣ですから、お盆の行事はまさに、インド、中国、日本の三国の文化が合成された行事といえるでしょう。又、お盆に施餓鬼供養を重ねるのは、目連尊者のお母様の話を応用したものと思われます。盂蘭盆会大施餓鬼会などと熟語して法会をすることが多いようです。
最近では、施餓鬼会を施食会と名前を変えてこの法会を行う宗旨が多くなってきましたが、これは餓鬼という言葉を嫌ったり、自分のご先祖様は餓鬼ではない、とするためとおもわれます。
とにかく、親の恩に報い、ご先祖さまを思うことは大切なことです。お盆やお彼岸だけに限らず、普段から心して供養したいものです。 |
合 掌 |
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「いってきます」と家から出かける人もいれば、「いってらっしゃい」と見送る人もいます。また、「ただいま」と帰った人を「おかえりなさい」と迎えあいます。そんな家庭があることは有り難いことですね。 ところでこの「いってきます」「いってらっしゃい」を漢字にすると、往来とはならないでしょうか。仏教では往くと来るをセットにして「往ったり来り」の世界を説いています。この往来は単に家庭生活、社会生活を表現するにとどまりません。私達の生死も往来にほかなりません。お釈迦さまはこの娑婆を8千返も往来なさいました。
生まれたり死んだりすることが往来なのですが、往なのか来なのかは見る角度によって違います。私達はなんとなく、死んでこの娑婆を去るのが往生だと思っています。でも仏様の方から見れば、つまりあの世から見れば「往って来っしゃい」と送り出した人が「往って来ました」と来生したことになります。「おかえりなさい」と仏様は私達を迎えてくれるのです。そうです。私達はこの娑婆世界へ趣くにあたり、仏様に見送られて送り出されてきたのです。だから耐え忍びながら、娑婆の修行をし、救済活動を果たして「ただいま」と言いながら仏の国へ帰れるような生き方を続けなければなりません。 お葬式でのお位牌に新帰元と書き添えられているのを、お見かけになったことがあるでしょう。新たに元に帰ったということです。娑婆での修行・活動を終えて、仏の国へ 帰還なされたということですね。 私達は何のために生まれ、何故死んでゆくのか。私達にとって生死はこわいものですが、この往来観を得、これを信じれば、もう何もこわがることはありません。仏様の教えに従って生き、生を終えて帰ったとき、娑婆でのことを胸を張って報告できるようにしたいものです。 |
合 掌 |
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「これは是非やりたい」というような何かをしようとする時、不退転の決意で臨むなどと使っていますが、単に逆もどりをしないというだけの意味なのでしょうか。 仏教では、仏となるために修行を重ねてゆくことを説いていますが、その仏道修行の過程で、すでに得た功徳を決して失うことのない境地・位を不退転の位といっております。 いいかげんな修行ではエレベーターのように、上がったと思っても下がってしまいます。しかし真剣に修行を重ねてゆけば、必ず仏となれますし、仏とならないまでも、必ず仏となれる位に上がることができます。ここまでくると山の頂上に達したようなもので、すべり落ちることはありません。相撲にたとえては申し訳ない話ですが、横綱になればもう番付は下がりません。逆戻りをしない修行の最高峰が不退転位です。私たちは常に、理想たる不退転位に達するべく努力してゆかねばばなりません。それこそ不退転の決意で頑張ってゆくべきです。
人が亡くなった時にお位牌に、何々不退転と書かれる場合があります。しかし死にさえすれば不退転位に達し、さらに成仏できるのでしょうか。生きているうちは欲が多くてなかなか仏になれないので、せめて死んだのちに・・・という願望がそう書かせているのでしょう。しかし死んでから徳を積み、修行を重ねても間に合いません。生きている時こそ大切です。来世に、この世でしでかした悪の報いを受けることのないよう、我が身が今生にあるうちに徳を積んみ、往生のための貯金をしておきたいものです。 |
合 掌 |
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この言葉も上品や学生などと同様、時代とともに読み方が変わってしまった言葉です。ご存知の方も多いと思いますが、元々の仏教読みでは「あんじん」と発音されてきました。江戸時代頃より「あんしん」と発音されはじめたようです。しかし、いずれの読み方にしましても、安心とは心が安らかであることを指すのに変わりありません。
つまり、仏法によって心の安らぎを得て、動ずることのない境地のことです。
私たちが安心していない時とはどんな時でしょう。それは恐ろしがっている時、迷い悩んでいる時ではないでしょうか。恐ろしさから逃れ、迷いを断つことができればおのずから安心という状態になれるでしょう。恐ろしさの原因は相手を信じられない心にあり、迷いの原因は自分の欲望からくる煩悩にあります。
自分勝手にでっち上げた、ありもしない妄想にふりまわされてはいけません。早く仏さまを信じてその教えによって迷いを絶つことが肝心です。観音さまは施無畏といいまして、私たちの心に安心を与えてくださる名医です。
「無垢清浄の光にあって慧日諸の闇を破り能く災いの風火を伏して普く明らかに世間を照らしたもう」
仏さまのけがれなき清らかな光に己の煩悩の闇を照らしていただき、おさとりを得た明るい安心した毎日を送りたいものです。
さとった人にとっては恐ろしいものはありませんし、山川草木に至るまでみんなわが味方になるのです。 |
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