H22.12月のことば 『住所・住処』
 師走、12月と言うと、普段はあまりお手紙を書くことが少ない方でも、新年のご挨拶、年賀状を書くと思います。もっとも最近は新年のご挨拶も、メールを利用する方が増えてきて、年々年賀状の販売枚数が減っているようですが・・・。
 しかし、たとえメールでのやり取りしかなさらない方でも、住所はお持ちですね。当山にも住所があります。では仏さまの住所はどこでしょうか。極楽浄土なのでしょうか、それとも・・・・・。
 なんと、仏さまは住所不定なのです。なぜかといいますと、仏さまは常に他を救う行をしておられますから、自分だけが浄土で極楽をきめこんでいるなどということはありませんから、自分だけが浄土で極楽をきめこんでいるなどということはありません。そしていつも、私たち悩める者のそばにおられて、私たちを救うために働いておられるからです。つまり、仏さまの働く現場が変わるのに合わせて、住所も点々と変わるということですね。

 ところで、住所とは本来、お釈迦さまが説法なされた場所のことをいいました。また住処とは、住居なされた処です。でも、お釈迦さまは、今の私たちのように一ケ所に長くとどまることなく、常に法を説きまわって無数億の衆生を教化してこられたということです。お釈迦さまも他の仏さまも同様に、住所不定だったんですね。実は、「常に霊鷲山及び余の諸々の住処にある」のがお釈迦さまであり、さらに、仏身は法界に充満して、あまねからずということがないのです。私たちの右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも常に仏さまが居られて法を説いていることを、十方常住の三宝などと言っております。そして末代までも世に保存されてとどまることのないこの三宝を住持三宝と言っておりますが、本当の住とは「長く一ヶ所にとどまる」というものではなかったかもしれません。
 もし、今の意味での住、つまり、どこか定まった場所に定住できるところがあるとしたら、そこは「修行者が安住する“心”」くらいなものでしょう。浮世の住所たる心、しかも悟りの心に住居をかまえられれば幸いではないかと思う次第です。      合掌
※文中の写真は12月初旬の境内の様子です
H22.11月のことば 『赤の他人(あかのたにん)』
 赤には赤色の意味のほかに、目立つ強烈な色ですから、「真っ赤な嘘」とか「赤っ恥」のように、マッタクとかトンデモナイという強めの言葉として使われます。でも「赤の他人」のアカはラテン語のアクア(水)と考えるのも面白いです。水のように冷たい、別れれば跡も残らない関係だというわけです。
 お寺では、仏様にさしあげる水を閼伽水(あかすい)といい、その器を閼伽器(あかき)といいます。水は供物として、香や火や華とならんでかかせないものです。もちろん、人の体のほとんどが水ですから、水は生命そのものと言っても良いでしょう。お釈迦様誕生の水は甘露水(かんろすい)でした。花まつりには、誕生仏に甘露水に見立てた甘茶をかけます。これは、潅頂(かんじょう)の儀式です。インドにおいて王位につく資格を認める式です。お釈迦様は長じて、仏陀となられることが約束されているので、水をおかけします。最後の水は末期の水です。お釈迦様は、チュンダの布施したキノコにあたったといわれていますが、臨終の激しい下痢の苦痛に耐えながら、弟子たちに最後の説法をいたしました。そして、「説くべきことはすべて説いた。何も隠すものはない。もうすぐ涅槃に入るであろう。怠らず精進せよ」といわれ、阿難(あなん)に最後の水を所望します。その水を飲んで静かに涅槃に入られました。それで、いまでもガーゼや綿に浸した水で、死者の唇を濡らすのです。産湯(うぶゆ)に生まれ、湯灌(ゆかん)で死んでゆく人生です。

 仏教は水と緑に恵まれた地に生まれ、砂漠のオアシスに跡を残しつつ中国へ至りました。
 あるとき砂漠の回教徒の清めは砂であることを知りました。砂は心のひだまでは洗い流せません。イスラエルとパレスチナが、さらにアメリカとアラブ諸国が、水に流せぬ千年の確執を続ける訳が何となくわかる気がいたします。

 仏教は東漸して「和」を日本にもたらしてくれたと思います。そして、水は瑞穂(みずほ)の国の根本です。奈良東大寺二月堂のお水取りは、若狭井の閼伽水を本尊様に捧げます。それは農耕を始める行事で、田に若水をそそぎ、稲の命を(よみがえ)らせるための祈りなのです。そして、タイや、ミャンマー、スリランカでは、仏の水をかけ合う水かけ祭りが盛大に行われます。

阿難(あなん)…十大弟子でお釈迦様のいとこ。終生おそばに仕えてもっとも言動に触れられたので、多聞第一と言われる。
※文中の写真は「観月会」の様子です
H22.10月のことば 『坊主と和尚(ぼうずとおしょう)』
 ボウズは坊(房)の主ですから一寺の住職のことです。ところが「バクチに負けて坊主になった」、「坊主丸儲け」、「三日坊主」、「生臭坊主」とあまりよい響きではありません。さらに子供をボウズといい、剃った頭はハゲを意味したり、罪の償いや謹慎など、よい使われ方をしません。その点ではオショウ(和尚)の方がずっと親しく、尊敬が込められています。それもそのはずで、「おだやか」の和と「とうとい」の尚からなる言葉であり、お釈迦様の僧院で僧たちの指導を司った先生(オッジャー)を呼んだ言葉だからです。また、日本では朝廷が僧の官位を表す語としましたので、高僧や有徳の僧に使われました。
 一方、坊主の坊は堤防のボウで水を防ぐ堤が転じて、街の一区画を示すようになりました。そんな寺院の一画の建物(僧坊=ヴィハーラ)の長が坊主です。それがなぜ蔑称になったかは、とても興味深いものがあります。
 まず、昔の僧は官僧(いわば国家公務員)で専ら国の繁栄の祈祷をしていました。それでコネやワイロで公家や貴族の子弟がこぞって僧になり、風紀も気風も乱れてしまいました。のちに外護者の力がなくなると自衛のため僧兵を雇うようになりました。僧の格好の兵士が乱暴を働くこともあって、人びとの反感をかったのです。さらに、当時の官僧は不浄を怖れて死者のかかわることが許されませんでした。いまでは信じられないでしょうが、人間の一番の悲しみである葬儀にタッチできなかったのです。しかし、官僧になれなかった者や官僧を辞めた僧が、巷に出て積極的にお弔いを始めました。その中には帰依を受けて裕福になり、贅沢をする僧も出てきたのです。とくに、江戸時代になって檀家制度ができ、一定の数の信者がお寺に固定されると、布教も修行もおろそかになって、堕落する僧も多くなりました。こんなことが僧側の原因としてあげられます。
 また、江戸幕府に「お茶坊主」という職ができたことも、ニセ坊主の印象を強めました。講談でおなじみの河内山宗俊のように、剃髪して城中の大名の給仕、使い走りをした者がいます。裏の駆け引きに長けていたので胡散臭い存在でした。
 頭を剃ってしまうと、目立つ代わりに中身の真贋、優劣が分からなくなってしまいます。そんなところで坊主と和尚のニュアンスがかくも違ってしまったのです。
合 掌

※文中の写真は、構響楽〜 松居和先生の尺八 光・音・和 〜
H22/10/02に当山で開催されました
H22.9月のことば 『ジャンケン』
 皆様はよくジャンケンをなさるでしょう。日本人がジャンケンで決めるところを、西洋人なら、硬貨を投げて表か裏かで決めますね。
 ところでジャンケンは日本独特なものだとお考えの方がおられるようですが、そうではありません。アジア一般に見られるインド伝来の方法と言ってよいでしょう。
 もっともインドでは石・はさみ・紙ではなく、像・蟻・人間で勝負するようです。また「ジャンケンポン」の掛け声も日本語ではありませんね。
 中国にはりやんけん(両拳)という拳があり、これに料簡(りやんけん)という字をあてて、「料簡法意」(りやんけんぽうい)と掛け声したのが、その始まりということです。このことは、ベトナムにもジャンケンがあり、料簡法意からきたとの伝えがあるので、ほぼ間違いないことといえましょう。
 料簡とは仏教語で「問題点を考察して相互の調和をはかること」、法意とは「お釈迦様の教えに照らしてどうか」ということですから、よく出来た掛け声ですね。
 とにかく、日本で今行われているジャンケンのルーツが中国とインドにあるということを知って戴きたいとおもいます。
 また、ジャンケンは二者択一でないところが良いところですね。硬貨を投げるのも、丁半で決めるのもゴマカシがし易い方法です。裏だけの硬貨を作ったり、半だけのサイコロを作ったりすればよいのですから・・・。 「どちらにしようかな、かみさまのいうとおり」と言いながら決めるのも、最初にどちらから始めるのかで、落ち着く先が読めてしまいます。
 その点ジャンケンは、三様の手がありますし、お金もかかりません。公平度も高いと申せましょう。
「ジャンケンポン  アイコデショ」
意味と方法のすばらしさに、改めて感心する次第です。
合 掌
H22.2月のことば 『まごころ・信心・洗心』
 他の人の為に尽くそうとする純粋で美しい心を「まごころ」と言いますね。まごころを漢字にすれば「真心」となり、これをシンシンと読めば、仏・菩薩の持つ慈悲の心即ち仏心を指します。一方、マコト(真)ノココロ(心)と読んで更に縮めればマコトゴコロ→マゴコロとまごころにもどります。また、まことの心と言えば、浄土真宗では「信心」の字をあて、凡夫が阿弥陀さまの真実心を領受したものをさします。領受すれば同じ心ですから、仏心も信心も真心も同じものを違う角度から指し示したものと言えましょう。

 なんだかわかったような、わからぬような話になりましたが、仏さまと私達の間や私達お互いの間に「まごころ」を通わせることが大切ですね。まごころを通じあわせるには、お互いの心がきれいでなくてはいけません。

 しかし残念ながら、私達凡夫の心は、煩悩という塵芥にまみれ、それが絶縁帯となってお互いに通じあわないのが現状です。
 そこで常に心をきれいにしておくよう心がける必要があります。私達が何か美しい光景に出合った時、心洗われる思いをすることがありますが、自分から積極的に心を洗ってきれいにする姿勢が望まれますね。心を洗うことを「洗心」と申します。
 洗心ということばはよく知られたことばですが、今のところ国語辞典を引いても出ておりません。洗脳や洗礼が出ているのに洗心が無いとは変な現象だと感じましたが、そのうち辞典にも取り上げられるでしょう。

 とにかく、自分で洗心して、仏さまや皆様と、まごころがうまく通じあうようにしておくことに致しましょう。心にたかる塵・芥・垢を離せば、そのまま仏に成れるというものです。洗心法は念仏や座禅・読経などたくさんありますから、自分にあった方法でトライなさればよいのではないでしょうか。
合 掌
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