ボウズは坊(房)の主ですから一寺の住職のことです。ところが「バクチに負けて坊主になった」、「坊主丸儲け」、「三日坊主」、「生臭坊主」とあまりよい響きではありません。さらに子供をボウズといい、剃った頭はハゲを意味したり、罪の償いや謹慎など、よい使われ方をしません。その点ではオショウ(和尚)の方がずっと親しく、尊敬が込められています。それもそのはずで、「おだやか」の和と「とうとい」の尚からなる言葉であり、お釈迦様の僧院で僧たちの指導を司った先生(オッジャー)を呼んだ言葉だからです。また、日本では朝廷が僧の官位を表す語としましたので、高僧や有徳の僧に使われました。
一方、坊主の坊は堤防のボウで水を防ぐ堤が転じて、街の一区画を示すようになりました。そんな寺院の一画の建物(僧坊=ヴィハーラ)の長が坊主です。それがなぜ蔑称になったかは、とても興味深いものがあります。
まず、昔の僧は官僧(いわば国家公務員)で専ら国の繁栄の祈祷 をしていました。それでコネやワイロで公家や貴族の子弟がこぞって僧になり、風紀も気風も乱れてしまいました。のちに外護者の力がなくなると自衛のため僧兵を雇うようになりました。僧の格好の兵士が乱暴を働くこともあって、人びとの反感をかったのです。さらに、当時の官僧は不浄を怖れて死者のかかわることが許されませんでした。いまでは信じられないでしょうが、人間の一番の悲しみである葬儀にタッチできなかったのです。しかし、官僧になれなかった者や官僧を辞めた僧が、巷に出て積極的にお弔いを始めました。その中には帰依を受けて裕福に なり、贅沢をする僧も出てきたのです。とくに、江戸時代になって檀家制度ができ、一定の数の信者がお寺に固定されると、布教も修行もおろそかになって、堕落する僧も多くなりました。こんなことが僧側の原因としてあげられます。
また、江戸幕府に「お茶坊主」という職ができたことも、ニセ坊主の印象を強めました。講談でおなじみの河内山宗俊のように、剃髪して城中の大名の給仕、使い走りをした者がいます。裏の駆け引きに長けていたので胡散臭い存在でした。
頭を剃ってしまうと、目立つ代わりに中身の真贋、優劣が分からなくなってしまいます。そんなところで坊主と和尚のニュアンスがかくも違ってしまったのです。 |
合 掌 |
※文中の写真は、構響楽〜 松居和先生の尺八 光・音・和 〜
H22/10/02に当山で開催されました |
皆様はよくジャンケンをなさるでしょう。日本人がジャンケンで決めるところを、西洋人なら、硬貨を投げて表か裏かで決めますね。
ところでジャンケンは日本独特なものだとお考えの方がおられるようですが、そうではありません。アジア一般に見られるインド伝来の方法と言ってよいでしょう。
もっともインドでは石・はさみ・紙ではなく、像・蟻・人間で勝負するようです。また「ジャンケンポン」の掛け声も日本語ではありませんね。
中国にはりやんけん(両拳)という拳があり、これに料簡(りやんけん)という字をあてて、「料簡法意」(りやんけんぽうい)と掛け声したのが、その始まりということです。このことは、ベトナムにもジャンケンがあり、料簡法意からきたとの伝えがあるので、ほぼ間違いないことといえましょう。
料簡とは仏教語で「問題点を考察して相互の調和をはかること」、法意とは「お釈迦様の教えに照らしてどうか」ということですから、よく出来た掛け声ですね。
とにかく、日本で今行われているジャンケンのルーツが中国とインドにあるということを知って戴きたいとおもいます。
また、ジャンケンは二者択一でないところが良いところですね。硬貨を投げるのも、丁半で決めるのもゴマカシがし易い方法です。裏だけの硬貨を作ったり、半だけのサイコロを作ったりすればよいのですから・・・。 「どちらにしようかな、かみさまのいうとおり」と言いながら決めるのも、最初にどちらから始めるのかで、落ち着く先が読めてしまいます。
その点ジャンケンは、三様の手がありますし、お金もかかりません。公平度も高いと申せましょう。
「ジャンケンポン アイコデショ」
意味と方法のすばらしさに、改めて感心する次第です。 |
合 掌 |
|
他の人の為に尽くそうとする純粋で美しい心を「まごころ」と言いますね。まごころを漢字にすれば「真心」となり、これをシンシンと読めば、仏・菩薩の持つ慈悲の心即ち仏心を指します。一方、マコト(真)ノココロ(心)と読んで更に縮めればマコトゴコロ→マゴコロとまごころにもどります。また、まことの心と言えば、浄土真宗では「信心」の字をあて、凡夫が阿弥陀さまの真実心を領受したものをさします。領受すれば同じ心ですから、仏心も信心も真心も同じものを違う角度から指し示したものと言えましょう。
なんだかわかったような、わからぬような話になりましたが、仏さまと私達の間や私達お互いの間に「まごころ」を通わせることが大切ですね。まごころを通じあわせるには、お互いの心がきれいでなくてはいけません。
しかし残念ながら、私達凡夫の心は、煩悩という塵芥にまみれ、それが絶縁帯となってお互いに通じあわないのが現状です。 そこで常に心をきれいにしておくよう心がける必要があります。私達が何か美しい光景に出合った時、心洗われる思いをすることがありますが、自分から積極的に心を洗ってきれいにする姿勢が望まれますね。心を洗うことを「洗心」と申します。
洗心ということばはよく知られたことばですが、今のところ国語辞典を引いても出ておりません。洗脳や洗礼が出ているのに洗心が無いとは変な現象だと感じましたが、そのうち辞典にも取り上げられるでしょう。
とにかく、自分で洗心して、仏さまや皆様と、まごころがうまく通じあうようにしておくことに致しましょう。心にたかる塵・芥・垢を離せば、そのまま仏に成れるというものです。洗心法は念仏や座禅・読経などたくさんありますから、自分にあった方法でトライなさればよいのではないでしょうか。 |
合 掌 |
|