なかなか便利な言葉で、ややこしい人間関係から、仕事が込んでいる言い訳や片づかない部屋のことまで、「ゴタゴタしている」ですんでしまいます。このゴタゴタは兀菴和尚に由来します。兀菴普寧は、鎌倉時代に中国から来朝した臨済宗の禅僧です。北条時頼の帰依を受けて、鎌倉の建長寺の住職になりました。なかなかの論客で禅風を広めたのでが、この和尚の説法は理屈っぽくて難解でした。人びとはややこしい話になるとまるでゴッタン和尚の説教のようだと「ゴッタン、ゴッタンしている」と言いだし、ゴタゴタという言葉となったそうです。
同じような分からないことをチンプンカンプンといいます。これは長崎の方で言いだされた言葉で、中国人たちがしゃべっている理解できない外国語のことです。同じ分からない話でも、禅僧の説教は、常識をひっくり返して真実を考えさせる禅問答です。たとえば、「拍手したとき、どっちの手で鳴ったのか答えよ」という公案があります。現代教育が得意な科学的思考法では、絶対に説明できません。だから、学校の先生はこういう問題は切り捨てます。ところが、世の中は1+1が2になることはほとんどありません。答えが一つしかないということもないし、みなが同じ答えになることもありません。とすると、この公案の目的は自分で考えること、納得すること、決定することにあります。つまり、借り物の思考ではなくて、自分の真実を引き出さなければなりません。
さあ、あなたはどっちの手が鳴ったと答えますか。「馬鹿馬鹿しい」「何の役にもたたん」。その通りですが、そう考えて、利益にならないものを切り捨ててきた結果が現在の日本の住みにくさだと思いませんか。たとえば掃除は何のためにしますか?と聞かれて、きれいにするためが正解でしょう。しかし、もともときれいだったら掃除しなくてもいいのでしょうか?汚れを気にしない人は掃除をしなくてもいいのでしょうか?という問題をはらんでいます。つまり、仏教の掃除は自分の心を磨くためにするのです。
くだんの兀菴和尚は、その後の幕府のゴタゴタに嫌気がさしてか、時頼の死後、日本を去ってしまいました。 |
文中の写真は6月末の境内の様子です |
胡麻の上の蝿が見にくいという説もありますが、諸国を巡る遊行僧に化けて、護摩を焚いたあとの灰を弘法大師の霊薬と偽って売り歩いた、という方が面白い解釈です。 のちに、旅人を装って財物をかすめとる小悪党を指すようになりました。
これに似た言葉がゴマカスで、インチキな坊さんが大仰に護摩を焚いて祈祷する様子が目に見えるようですが、こちらはゴマドウラ ンという江戸時代の胡麻菓子のことです。小麦粉をふくらました焼き菓子の中が空なので、見かけ倒しで中身がないことを表現しています。でもこのお菓子は、安い割に見栄えがよいので、三方いっぱいに積み上げて、仏前のお供えとして重宝されました。お土産の上げ底や二重底などのゴマカシは江戸時代からあったようですね。
手品や奇術で誤魔化されるのを楽しんでいるのは結構ですが、最近の政治家の方々の利権争いのパフォーマンスも、弘法大師の護摩の灰とだまして売りつけ、インチキな加持祈祷でだました悪徳僧にダブって見えます。
そもそも護摩は、仏教以前のバラモン教時代の日の神に捧げる修法で、智慧の火によって迷いの薪(護摩木)を焼き、その願いを叶えるという意味があります。一度は 栄えた仏教も、このバラモン教に飲み込まれてしまいます。それはバラモンという最上級のカーストが、神をコントロールして人びとに現世利益を与えさせる力があると、 民衆に信じ込ませたからです。 ともあれ仏教は、自分の教義と少々異なっていても、別の宗教のよいところは取り入れるという寛容性ゆえに、お膝元のインドではほとんど消滅してしまいました。個
性の強い宗教が世界中に争いの種を播いているとき、もっと仏教徒の平和主義をアピールできないものかと思います。 |
文中の写真は5月に行われた「葵 ひろ子チャリティーコンサート 」の様子です |
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長屋の熊さんが「テーヘンダ」と駆けてくるのは、ネコにサンマを盗られたたぐいのことですが、吉良刃傷の、討ち入りといえば「お家の一大事」です。でも仏教語としての一大事は「仏がこの世に出現して人びとを救うこと」です。
いまは異教の国、パキスタンの国宝になっている釈迦苦行像の発見によって、西欧の学者はようやくお釈迦さま(釈迦牟尼)を実在の人間として認めました。また、仏典では気の遠くなるような時間の生まれ変わりの果てに、ブッダ(仏陀)となったと記しています。その前世の修業時代を仮想したのがジャータカ物語です。この釈迦族出身の聖者は紀元前500年頃、インドの北部(現在のネパール領ルンビニ)で生まれました。母マーヤは出産後すぐに亡くなってしまい、母の妹によって育てられました。父王は覇者となるよう念じてシッダルタと名付けましたが、長男ラーフラが生まれたのを機に城を出て出家してしまいました。29歳で苦行林に入ったシッダルタは6年間の修行の末、ガヤ郊外の菩提樹下で悟りを開かれ覚者となられたのです。
古代インドには、いつかブッダが出現して人びとを救うという言い伝えがありました。
しかし、覚者はなかなかこの世に現われませんでした。シャカ族の王子が出家してブッダとなったと聞いて、とうとう「一大事因縁」が整ったと人びとは大喜びをいたしました。以来、45年間、北インドを巡り歩かれてたくさんの人びとを導かれたのです。けれども人として兜率天より人間界へ降ったたった一人の覚者です。人として死をまぬがれることはできません。80歳を迎えたお釈迦さまは死期を悟ったのか、故郷の城、カピラバスドウへの道をとります。その途中、チュンダの施した食事にあたって、クシナガラの沙羅樹の林で息を引き取られました。
お釈迦さまの遺言は「自らを灯火となし、法を拠り所として、おこたらず進め」です。さらに「説くべきことはすべて説いた」と一大事をなし終えて兜率天へと帰っていかれたのです。仏教では80歳の長壽を仏壽と申します。
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文中の写真は5月の新緑まぶしい境内です |
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この語はムイチブツと読む時とムイチモツと読む時がありますが、読み方による意味の違いはなさそうですね。只、「腹に一物、背に荷物」と言えば、モツを両方にかけた言葉遊びになりますから、一物はイチモツ、無一物はムイチモツと読まれてきたと申せましょう。仏教語としても、「法身覚了すれば無一物」等とモツと読むのが普通です。
ところで、一般に無一物といえば、破産状態になって困ることですが、仏教的には、本来の自己・生命そのものにたちかえることを指します。本来の自己は無一物です。ちょっと考えてみてください。私達がこの世に生まれ出てきた時、何かを持ってきたでしょうか? また、
死んでゆく時、何かを持ってゆけるでしょうか? 何もありませんね。
「裸にて生まれてきたに何不足」という道歌がありますが、この体さえも、この世に出る為に、この世の父母から頂戴したものです。そしてこの体は、この世を去る時に父(天)母(地)にお返ししなければなりません。
この世では、すべてが持ち込み禁止、持ち出し禁止なんですね。私達は命そのものになって往来するしかないしくみです。本当に所有できるものは何もないのです。
でも、それが良いのですね。人の体を引きずっていれば、鳥のように空を飛ぶこともできなければ、魚のように水中を泳ぐこともできません。生命体を得ればうれしい反面、それが持つ条件にしばられるでしょう。どんな体を得てもそんな体にとらわれなければよいのです。手に何ももっていなければ、何でも自由につかめるように、無一物だからこそ、無尽蔵の宝を得られると言えましょう。無一物中無尽蔵なんですね。
「本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」と慧能禅師が詠まれたように、よごれることのないおさとりの仏身を我が体として生きられたらなあと念じております。 |
文中の写真は春の兆しがいっぱいの4月初旬の境内です |
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スポーツ選手がゲンをかついで、髭を剃らなかったりします。芸能人などの人気商売もゲンをかつぎますし、一般でも悪いことが続くとゲン直しに一杯やろう!ということになります。このゲンとは、縁起の逆さことばという説があります。ギエンがゲンになったというわけです。たしかに、特定の集団で使う独特の隠語には、この逆さことばがよく使われます。マネージャーをジャーマネ、たねをネタ、めしをシーメ、おんなをナオンというふうにいいます。そのほか、験には「きざし/兆候」という意味がありますから、ゲンにこの漢字を当てることもあります。
この縁起は、仏教の基本的考えを示します。この世のものはすべてが何らかの関わりを持って存在するというのです。
たとえば、池を通りかかった人が水鳥を見ました(縁)。いたずらで石を投げました(因)。水鳥は飛び立ち、いなくなりましたが波紋が広がりました(結果)。ところがこれでおしまいではありません。その水鳥は人を見ると逃げるようになり、それを見ていた人は水鳥をいじめた悪い人だと記憶しました。このように一つの行為はたくさんの現象の因となり、また次の縁となって、無限の連なりを演出します。
私たちに例えれば、自分のいまの命は自分だけのものではないと いうことであります。
この地球の海に、三十五億年前、一個の細胞が誕生しました。その時から、一度も命の糸が切れることが無かったから、今、ここにあなたがいます。これは奇跡です。これ以上の幸運はありません。しかも、あなたに縁のあったすべてのできごとが結果的に、あなたの命を守り続けてきたのです。いま現在も、大きな愛に包まれているから生きていられるのです。こう考えるとき、あなたはどんな困難も、不幸も、厳しさも、きっと乗り越えて生きていけるはずです。いや、そうでないと、あなたを支えた無数の命、あなたを愛した無数の親、あなたのために流された無量の涙のすべてを裏切ることになるのです。これが仏教で自死を禁じる理由です。
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私たちは、人が二人よれば必ずあいさつから始まります。時には動植物にもあいさつをする場合もあります。社会の中で生きている限りあいさつなしというわけにはいかないのです。
新たな年を迎え、今が一番あいさつをする時期かも知れません。
挨拶は禅語で問答を意味します。 挨も拶も詰め寄る、迫るという意味で、弟子が師匠に「あなたは本物の仏教を伝えていますか。」と切り込みます。師匠は自分たちの得たものを確実に受け取ってくれる素質があるかどうか見定めます。未熟なら打ち据えられて寺から放り出され、負ければ住職といえども寺から追われてしまう真剣勝負が禅問答です。とてもあいさつ程度ではすみません。
それほどでなくても、最近は親にあいさつしない子や、あいさつもまともにできない新成人は日本人ではなく、異星人です。あいさつは社会人としての最低のエチケットです。あいさつの基本はオアシス運動にもありますように、オはよう・アりがとう・シつれいしました・スみませんーです。こんな単純なことばが、ときに応じてスッと出てこなくなった社会や学校はどこかで絆が切れています。お互いを尊重し合い認め合う何かが欠けているのです。こんなところに、現在の家庭内暴力、幼児虐待、引きこもり、いじめ、教育現場の荒廃があり、ひいては少年犯罪の凶悪化などがあるといっても過言ではありません。
朝はオハヨウです。よく心さえあれば、ことばや行為は二の次だといわれる向きもありますが、残念ながら心はことばや行いを通じてしか伝わりません。また、形より心ということもいいますが、心は形に込めた方がより伝えやすくなります。おはようと決まっているから、だれとでも朝の爽快感を分け合えますが、何を言ってもよいのでは悩んで時期を逃します。次のアリガトウは有り難しです。めったにない親切をしていただいて、とてもお返しができませんーと恐縮します。失礼シマシタは、何も知らなくて礼儀を欠 きました、お許しくださいというへりくだりです。最後のスミマセンは美しい日本の情感ことばだと思います。外国人はめったに謝りません。謝ることは非を認めたことになって、全面的な保障を負わねばならなくなるからです。裁判でも最後まで悪く無かったと論陣を張ります。ところが日本人は悪くなくてもまず謝ります。とにかく当事者として、自分にも非があったかもしれない、相手に嫌な気持をさせたくないという思いやりなのです。この一つひとつのことばに、神ならぬ間違い多き人間の「共生き」の智慧が隠されて いると思うのですが・・・
これも旧人類の愚痴でしょうか。
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