H23.12月のことば 三昧(さんまい)
 「ゴルフ三昧」「つり三昧」「碁三昧」や「読書三昧」は高尚ですが、みんなまとめて「道楽三昧」と、あることに没頭してしまう状態を指しています。これは梵語のサマーディを音写したもので、もとの意味は心を一つに集めることです。
 仏教は瞑想(めいそう)の宗教とも呼ばれます。宗教的理想境を得るためにいろいろな修行がなされていました。代表的なものは苦行です。釘の板に寝たり、体に針を刺したり、火であぶったりと、ありとあらゆる方法で肉体を痛めつけます。最後は断食で、水さえも断ってしまいます。また、すべてを神に捧げてひたすら礼拝する方法。これは五体投地をしながら巡礼するチベット仏教などに残っています。そして仏教修行の中心となったヨーガ(瞑想)です。この瞑想の最終段階が「三昧」境なのです。
 釈尊は「人はなぜ生老病死の苦から逃れられないのだろう」という疑問を抱いて出家されました。その解決のために苦行林に入られ六年間、すべての苦行を実行されましたが、解けませんでした。尼蓮禅河(にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)を布施されて体力を回復された釈尊は、対岸の菩提樹の木の下で座禅を組まれ、ヨーガに入られました。苦行でもただ祈るだけでも真理は会得できな、と里人の唄から気づかれたのです。そして、悟りを開くまではこの座を離れないと決心されました。そして、一週間後の早暁、明けの明星の煌めきのもとで一切の疑問が解け、お悟りを開かれました。ときに十二月八日、偉大な覚者、大いなる救世主、仏陀が誕生されました。この日、多くの寺院で成道会(じょうどうえ)が営まれます。
 天台宗では、座禅のことを「止観(しかん)」と申します。心を一点にとどめ、ものごとの真実を観る、とういう意味です。
 何事にも、手抜きをせず、心をこめて一生懸命に取り組むことが大事ですね。
文中の写真は師走に入った境内です
H23.11月のことば 金輪際(こんりんざい)
 これは由緒正しい仏教語で、仏教の宇宙を表しています。
 仏教の母国のインド人はとても壮大な世界観を持っていました。仏国土は仏さま方が住む無限世界の浄土と、私たちが住んでいるvを中心とする有限世界から成り立っています。この須弥山世界は、宇宙に浮かんだ巨大な円筒の風輪です。その上に水輪、金輪となっていて、金輪は海で覆われています。その海の中央にそびえるのが須弥山で、周りには海水がこぼれないように鉄囲山(てっちせん)が囲んでいます。この大地は金輪の上にありますから、大地の果てるギリギリが金輪際です。
 ところで肝腎(かんじん)の私たちは、海の四方に浮かぶ大陸のうち、南に位置する閻浮州(えんぶしゅう)に住んでいます。
 ここでは、太陽も月も須弥山を中心に回っています。須弥山は天人の住む世界で、頂上には帝釈天(たいしゃくてん)の住む天宮があります。一方閻浮州には、地表から順に人間、修羅(しゅら)畜生(ちくしょう)餓鬼(がき)界と降りて行き、約5万キロの地底に地獄が広がっています。この地獄は犯した罪の軽重によって行き先の異なる地獄に分かれます。軽い順に、
殺生(せっしょう)の罪で行く等活(とうかつ)地獄
(自分の意志に関係なく殺し合いを続けなくてはならない)
盗みで落ちる黒縄(こくじょう)地獄
(大工道具の黒紐でつけられた線にそって切り刻まれる)
不倫や売買春(援助交際ももちろんです)など淫乱の罪で落ちる
衆合(しゅうごう)地獄
(絶世の美男美女を求めて、剣の山をズタズタに傷つきながら登っていく)
酒を飲んでの犯罪や嘘を重ねての犯行は叫喚(きょうかん)・大叫喚地獄
(熱い銅の汁を口に流し込まれたり、舌を抜かれたりする)
これまでの罪を重ねて犯したものは焦熱(しょうねつ)・大焦熱地獄
(火の海に突き落とされたり、あぶり焼きにされる)
そして地獄の底の底に、いままでの地獄の千倍の苦痛が襲う
阿鼻(あび)(無間)地獄の責苦が待っています。

 これらの地獄は、困ったことに一度死んでいますから二度と死にません。つまり殺されても、次の瞬間に生き返って、永久に断末魔の苦しみを味わい続けなければなりません。
 金輪際悪いことはやめましょう。
文中の写真は境内の秋の花です
H23.10月のことば 《自然・天然》(しぜん・てんねん)
 「自然」「天然」ということばを口にするとき、我々が頭の中でイメージするのは、のどかな田園風景、広大な山々、あるいは神秘の大海原といった、自然の風景が一般的でしょう。
 しかし自然は、いうまでもなく、そのような風景だけを指しているのではありません。自然は、仏教語ではじねんと発音する。ほかから何の力も加えられることなく自ら存在しているもの、そして生滅変化のないことを言います。また、「自然(じねん)法爾(ほうに)」「法爾(ほうに)自然(じねん)」ということばもあります。「法爾(ほうに)」とは、法そのまま、という意味で、自然と同意。さらには、「法然(ほうねん)」も同じニュアンスの語を指している。
 法然上人のことばに「炎が空に上がるのも、水が下へ流れるのも、お菓子の中に、自分に合わないもの、おいしいものもあるのも、これすべて法爾の道理なり」とあります。つまりは、ありのまま、おのずからそうなっているもの、と解釈してもよいでしょう。
 要するに人間を含めた天地間の万物、宇宙のことで、人間の力が加わらないものすべてが自然であり、天然なのです。
 現代のように、自然を人間の力で強引に変えたり、金の力で人生の成功の保証を得ようという傾向は、まさに不自然な行為そのものです。神仏の造った世界への挑戦以外の何物でもないのです。
文中の写真は秋の花が咲き始めた境内です
H23.9月のことば 「もっけの幸い」
 モッケとは物怪で妖怪や幽霊のことです。
それならなぜ、もののけが幸いするのかと理解に苦しみます。
仏教語では生き物やふつうの人を表します。つまり、物怪は怪しい生き物、ふつうでない人となって、予想外とかあり得ないという意味が出てきたのです。
 もののけは「ゲゲゲの鬼太郎」や「となりのトトロ」以来、愛すべき存在として認知されていますが、日本の歴史は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)との戦いでした。たしかに、天皇家は世界一はっきりしている家系としてギネスブックに載っているそうですが、神道にはうとい小生の考えでも、その神話はかなり都合がいいと思います。そもそも、卑弥呼の邪馬台国と大和朝廷が結びつきません。結局、アマテラスオオミカミ(天照大神)という稲作守護の太陽神が、天皇家の中に取り入れられていき、このアマテラスの孫ニニギノミコトから政治的な日本史が始まります。このアマツ(天神)系が先住民のクニツ(国神)系を次々に滅ぼして統一します。どうやら、土着民族を北方狩猟民族系が支配し、のちに南方稲作系が制覇したということになるのでしょう。ヤマタノオロチなる大蛇を滅ぼしたスサノオも、クマソを討ったヤマトタケルも、某大統領ほどではありませんが、相手を酔い潰すというかなり卑怯な手段を用いています。

 この怨念の流れは以後ずっと続きます。この怨霊に有効とされたのが渡来仏教です。聖徳太子が国の理念として採用しますが、人々に教義が理解されたわけではありません。そして、怨霊華やか平安末の不安の時代から、武士台頭の殺戮の中で、仏教は初めて民衆の中に広まりました。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗と、日本を代表する宗派が誕生していきます。物怪は仏教にとってはモッケの幸いだったのです。
 ところが最近、テレビが心霊現象だ、祟りだ、怨霊だと取り上げ、霊媒師、占師やおがみ屋がご託宣を述べ、はては派手な化粧の自称霊能力者まで「地獄に落ちろ」などといいます。これは坊さんの怠慢です。葬式、法事に追われ、お経を読むことだけを法施と偽ってきたせいです。みなさんも、坊さんにもっと仏教を説くよう求めましょう。
文中の写真は夏の名残りの境内です
H23.8月のことば 「おしゃれ」(お洒落)
 おしゃれが仏教とどう関係するのか、息抜きのシャレと思ってお聴きください。
洒落は当て字でさしたる意味はありません。そもそも、語源探索はパズル遊びのようなものですから、自分が楽しんだ分だけ得したという面があります。でも、身なりをよく見せようとするおシャレや、気の利いた文句、仕草のシャレとシャレコウベが関係しそうだと思ったら、がぜん楽しくなってしまいませんか。どうも「さらす」がキーワードのようです。同じ系列のことばに洒脱があり、欲気が抜けてさっぱりした様子のことですからたしかに一致します。晒は陽にさらす、洒は水にさらします。世間の風に晒されますと、垢抜けするわけです。友禅染も鴨川の寒の水に晒され、色鮮やかになります。つまり、シャレコウベも肉という欲気を捨て去った究極の姿ということになります。
 日本人は、ことのほか骨にこだわる民族です。戦後、60年を過ぎてなお、異国の地に眠る戦死者の遺骨を収拾します。とことんまで面倒を見ることを「骨を拾う」といいます。それで、日本の火葬普及率と薄い頭蓋骨まできれいに残す技術は世界最高だそうです。 イスラム教もキリスト教も死体にはこだわりますが、骨には関心がありません。朝鮮戦争では米兵の遺体を九州大学に運び、きれいに修復し、防腐処理をほどこして本国へ持ち帰ったそうです。そのため九州大学医学部の整形医の技術が上がったと聞きました。いまでも死体はエバーミング処理をして、きれいな死に顔をみんなに見てもらいます。
 イスラムでは火葬にすることを嫌いますので、インド洋大津波の時の死体処理は困難を極めたそうです。日本人は腐っていく肉をケガレとみて、山野に晒し、骨を拾って墓所に埋めました。それでお葬式を墓地送りといわず、野辺送りといいます。
 直接墓地に埋葬するようになったのは、お坊さんが葬儀をするようになってからです。仏教では火葬が主です。お釈迦さまのご遺体も火葬にしたのですが、一番弟子の迦葉尊者が隣国へ説法に行っておりませんでした。何度火をつけても火がつかず、迦葉尊者が戻られ、ご遺体を右周りに回ってお別れをして初めて火がついた、と仏典では伝えています。
文中の写真は8月始めの境内の様子です
H23.7月のことば 「ごたごた」(ごたごたする)
 なかなか便利な言葉で、ややこしい人間関係から、仕事が込んでいる言い訳や片づかない部屋のことまで、「ゴタゴタしている」ですんでしまいます。このゴタゴタは兀菴(ごったん)和尚に由来します。兀菴普寧(ふねい)は、鎌倉時代に中国から来朝した臨済宗の禅僧です。北条時頼の帰依を受けて、鎌倉の建長寺の住職になりました。なかなかの論客で禅風を広めたのでが、この和尚の説法は理屈っぽくて難解でした。人びとはややこしい話になるとまるでゴッタン和尚の説教のようだと「ゴッタン、ゴッタンしている」と言いだし、ゴタゴタという言葉となったそうです。
 同じような分からないことをチンプンカンプンといいます。これは長崎の方で言いだされた言葉で、中国人たちがしゃべっている理解できない外国語のことです。同じ分からない話でも、禅僧の説教は、常識をひっくり返して真実を考えさせる禅問答です。たとえば、「拍手したとき、どっちの手で鳴ったのか答えよ」という公案があります。現代教育が得意な科学的思考法では、絶対に説明できません。だから、学校の先生はこういう問題は切り捨てます。ところが、世の中は1+1が2になることはほとんどありません。答えが一つしかないということもないし、みなが同じ答えになることもありません。とすると、この公案の目的は自分で考えること、納得すること、決定することにあります。つまり、借り物の思考ではなくて、自分の真実を引き出さなければなりません。
 さあ、あなたはどっちの手が鳴ったと答えますか。「馬鹿馬鹿しい」「何の役にもたたん」。その通りですが、そう考えて、利益にならないものを切り捨ててきた結果が現在の日本の住みにくさだと思いませんか。たとえば掃除は何のためにしますか?と聞かれて、きれいにするためが正解でしょう。しかし、もともときれいだったら掃除しなくてもいいのでしょうか?汚れを気にしない人は掃除をしなくてもいいのでしょうか?という問題をはらんでいます。つまり、仏教の掃除は自分の心を磨くためにするのです。  くだんの兀菴和尚は、その後の幕府のゴタゴタに嫌気がさしてか、時頼の死後、日本を去ってしまいました。
文中の写真は6月末の境内の様子です
H23.6月のことば 「ごまのはい」(護摩の灰)
 胡麻の上の蝿が見にくいという説もありますが、諸国を巡る遊行僧に化けて、護摩を焚いたあとの灰を弘法大師の霊薬と偽って売り歩いた、という方が面白い解釈です。 のちに、旅人を装って財物をかすめとる小悪党を指すようになりました。
 これに似た言葉がゴマカスで、インチキな坊さんが大仰に護摩を焚いて祈祷する様子が目に見えるようですが、こちらはゴマドウランという江戸時代の胡麻菓子のことです。小麦粉をふくらました焼き菓子の中が空なので、見かけ倒しで中身がないことを表現しています。でもこのお菓子は、安い割に見栄えがよいので、三方いっぱいに積み上げて、仏前のお供えとして重宝されました。お土産の上げ底や二重底などのゴマカシは江戸時代からあったようですね。
 手品や奇術で誤魔化されるのを楽しんでいるのは結構ですが、最近の政治家の方々の利権争いのパフォーマンスも、弘法大師の護摩の灰とだまして売りつけ、インチキな加持祈祷でだました悪徳僧にダブって見えます。
 そもそも護摩は、仏教以前のバラモン教時代の日の神に捧げる修法で、智慧の火によって迷いの薪(護摩木)を焼き、その願いを叶えるという意味があります。一度は 栄えた仏教も、このバラモン教に飲み込まれてしまいます。それはバラモンという最上級のカーストが、神をコントロールして人びとに現世利益を与えさせる力があると、 民衆に信じ込ませたからです。 ともあれ仏教は、自分の教義と少々異なっていても、別の宗教のよいところは取り入れるという寛容性ゆえに、お膝元のインドではほとんど消滅してしまいました。個 性の強い宗教が世界中に争いの種を播いているとき、もっと仏教徒の平和主義をアピールできないものかと思います。
文中の写真は5月に行われた「葵 ひろ子チャリティーコンサート 」の様子です
H23.5月のことば 「一大事」(いちだいじ)
 長屋の熊さんが「テーヘンダ」と駆けてくるのは、ネコにサンマを盗られたたぐいのことですが、吉良刃傷の、討ち入りといえば「お家の一大事」です。でも仏教語としての一大事は「仏がこの世に出現して人びとを救うこと」です。

 いまは異教の国、パキスタンの国宝になっている釈迦苦行像の発見によって、西欧の学者はようやくお釈迦さま(釈迦牟尼)を実在の人間として認めました。また、仏典では気の遠くなるような時間の生まれ変わりの果てに、ブッダ(仏陀)となったと記しています。その前世の修業時代を仮想したのがジャータカ物語です。この釈迦族出身の聖者は紀元前500年頃、インドの北部(現在のネパール領ルンビニ)で生まれました。母マーヤは出産後すぐに亡くなってしまい、母の妹によって育てられました。父王は覇者となるよう念じてシッダルタと名付けましたが、長男ラーフラが生まれたのを機に城を出て出家してしまいました。29歳で苦行林に入ったシッダルタは6年間の修行の末、ガヤ郊外の菩提樹下で悟りを開かれ覚者となられたのです。
 古代インドには、いつかブッダが出現して人びとを救うという言い伝えがありました。 しかし、覚者はなかなかこの世に現われませんでした。シャカ族の王子が出家してブッダとなったと聞いて、とうとう「一大事因縁」が整ったと人びとは大喜びをいたしました。以来、45年間、北インドを巡り歩かれてたくさんの人びとを導かれたのです。けれども人として兜率天より人間界へ降ったたった一人の覚者です。人として死をまぬがれることはできません。80歳を迎えたお釈迦さまは死期を悟ったのか、故郷の城、カピラバスドウへの道をとります。その途中、チュンダの施した食事にあたって、クシナガラの沙羅樹の林で息を引き取られました。

 お釈迦さまの遺言は「自らを灯火となし、法を拠り所として、おこたらず進め」です。さらに「説くべきことはすべて説いた」と一大事をなし終えて兜率天へと帰っていかれたのです。仏教では80歳の長壽を仏壽と申します。
文中の写真は5月の新緑まぶしい境内です
H23.4月のことば 『無一物』
  この語はムイチブツと読む時とムイチモツと読む時がありますが、読み方による意味の違いはなさそうですね。只、「腹に一物、背に荷物」と言えば、モツを両方にかけた言葉遊びになりますから、一物はイチモツ、無一物はムイチモツと読まれてきたと申せましょう。仏教語としても、「法身(ほっしん)覚了すれば無一物(むいちもつ)」等とモツと読むのが普通です。
 ところで、一般に無一物といえば、破産状態になって困ることですが、仏教的には、本来の自己・生命そのものにたちかえることを指します。本来の自己は無一物です。ちょっと考えてみてください。私達がこの世に生まれ出てきた時、何かを持ってきたでしょうか? また、 死んでゆく時、何かを持ってゆけるでしょうか? 何もありませんね。
 「裸にて生まれてきたに何不足」という道歌がありますが、この体さえも、この世に出る為に、この世の父母から頂戴したものです。そしてこの体は、この世を去る時に父(天)母(地)にお返ししなければなりません。
 この世では、すべてが持ち込み禁止持ち出し禁止なんですね。私達は命そのものになって往来するしかないしくみです。本当に所有できるものは何もないのです。
 でも、それが良いのですね。人の体を引きずっていれば、鳥のように空を飛ぶこともできなければ、魚のように水中を泳ぐこともできません。生命()を得ればうれしい反面、それが持つ条件にしばられるでしょう。どんな体を得てもそんな体にとらわれなければよいのです。手に何ももっていなければ、何でも自由につかめるように、無一物だからこそ、無尽蔵の宝を得られると言えましょう。無一物中無尽蔵なんですね。
 「本来無一物、何処(いずれのところ)にか塵埃(じんあい)()かん」と慧能(えのう)禅師(ぜんじ)()まれたように、よごれることのないおさとりの仏身を我が体として生きられたらなあと念じております。
文中の写真は春の兆しがいっぱいの4月初旬の境内です
H23.2月のことば 『げ ん (ゲン[縁起]をかつぐ) 』
 スポーツ選手がゲンをかついで、髭を剃らなかったりします。芸能人などの人気商売もゲンをかつぎますし、一般でも悪いことが続くとゲン直しに一杯やろう!ということになります。このゲンとは、縁起の逆さことばという説があります。ギエンがゲンになったというわけです。たしかに、特定の集団で使う独特の隠語には、この逆さことばがよく使われます。マネージャーをジャーマネ、たねをネタ、めしをシーメ、おんなをナオンというふうにいいます。そのほか、験には「きざし/兆候」という意味がありますから、ゲンにこの漢字を当てることもあります。
 この縁起は、仏教の基本的考えを示します。この世のものはすべてが何らかの関わりを持って存在するというのです。

 たとえば、池を通りかかった人が水鳥を見ました(縁)。いたずらで石を投げました(因)。水鳥は飛び立ち、いなくなりましたが波紋が広がりました(結果)。ところがこれでおしまいではありません。その水鳥は人を見ると逃げるようになり、それを見ていた人は水鳥をいじめた悪い人だと記憶しました。このように一つの行為はたくさんの現象の因となり、また次の縁となって、無限の連なりを演出します。

 私たちに例えれば、自分のいまの命は自分だけのものではないということであります。
この地球の海に、三十五億年前、一個の細胞が誕生しました。その時から、一度も命の糸が切れることが無かったから、今、ここにあなたがいます。これは奇跡です。これ以上の幸運はありません。しかも、あなたに縁のあったすべてのできごとが結果的に、あなたの命を守り続けてきたのです。いま現在も、大きな愛に包まれているから生きていられるのです。こう考えるとき、あなたはどんな困難も、不幸も、厳しさも、きっと乗り越えて生きていけるはずです。いや、そうでないと、あなたを支えた無数の命、あなたを愛した無数の親、あなたのために流された無量の涙のすべてを裏切ることになるのです。これが仏教で自死を禁じる理由です。
H23.1月のことば 『挨拶(あいさつ)』
 私たちは、人が二人よれば必ずあいさつから始まります。時には動植物にもあいさつをする場合もあります。社会の中で生きている限りあいさつなしというわけにはいかないのです。
 新たな年を迎え、今が一番あいさつをする時期かも知れません。

 挨拶は禅語で問答を意味します。 挨も拶も詰め寄る、迫るという意味で、弟子が師匠に「あなたは本物の仏教を伝えていますか。」と切り込みます。師匠は自分たちの得たものを確実に受け取ってくれる素質があるかどうか見定めます。未熟なら打ち据えられて寺から放り出され、負ければ住職といえども寺から追われてしまう真剣勝負が禅問答です。とてもあいさつ程度ではすみません。
 それほどでなくても、最近は親にあいさつしない子や、あいさつもまともにできない新成人は日本人ではなく、異星人です。あいさつは社会人としての最低のエチケットです。あいさつの基本はオアシス運動にもありますように、オはよう・アりがとう・シつれいしました・スみませんーです。こんな単純なことばが、ときに応じてスッと出てこなくなった社会や学校はどこかで絆が切れています。お互いを尊重し合い認め合う何かが欠けているのです。こんなところに、現在の家庭内暴力、幼児虐待、引きこもり、いじめ、教育現場の荒廃があり、ひいては少年犯罪の凶悪化などがあるといっても過言ではありません。
 朝はオハヨウです。よく心さえあれば、ことばや行為は二の次だといわれる向きもありますが、残念ながら心はことばや行いを通じてしか伝わりません。また、形より心ということもいいますが、心は形に込めた方がより伝えやすくなります。おはようと決まっているから、だれとでも朝の爽快感を分け合えますが、何を言ってもよいのでは悩んで時期を逃します。次のアリガトウは有り難しです。めったにない親切をしていただいて、とてもお返しができませんーと恐縮します。失礼シマシタは、何も知らなくて礼儀を欠きました、お許しくださいというへりくだりです。最後のスミマセンは美しい日本の情感ことばだと思います。外国人はめったに謝りません。謝ることは非を認めたことになって、全面的な保障を負わねばならなくなるからです。裁判でも最後まで悪く無かったと論陣を張ります。ところが日本人は悪くなくてもまず謝ります。とにかく当事者として、自分にも非があったかもしれない、相手に嫌な気持をさせたくないという思いやりなのです。この一つひとつのことばに、神ならぬ間違い多き人間の「共生き」の智慧が隠されていると思うのですが・・・
 これも旧人類の愚痴でしょうか。
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