H24.12月のことば 「びみょう(微妙)」
 仏教語としてはミミョウと読みます。
 微は感覚で識別不能なもののことです。だから言い表しようのない美しさであり、たとえようのない思いなのです。これを伝えようとするには、身も心も一緒になって、同時体験をしなくてはなりません。それでも、次の瞬間に植物学者はどの系統の花なのかを知りたがり、花屋葉さんはいくらになるかと値踏みをするでしょう。きれいな花のきれいさは永久に伝わることはないのです。
 それでも何とかそれを伝えたいと考えた方がお釈迦さまです。
 お釈迦さまは12月8日の明け方に、明けの明星をご覧になり、この世の真理を会得され悟りを開かれました。しかし、一週間悩まれたのです。死にそうになるまでの苦行をしても得られず、運よく止観瞑想にたどりついて悟ったけれども、この難解な体系を理解し、それを実現する強固な意志を、一体何人の人が獲得できるだろう、徒労に終わるのではと危惧されました。そこに梵天が現れて「いままで一人もいなかったのにあなたが悟った。それだったら必ず理解する人がでるはずだ」と励ますのです。この一言で45年もの布教の旅が始まります。
 このあとのお釈迦さまの行動が素晴らしいのですが、一番自分を信用していない5人(出家のとき、父王がつけた従者で6年間修行をともにし、苦行を放棄したシッダルタを軽蔑し見限った人たちです)を初説法の相手に選んだのです。膨大な言行録はすべて聞き伝えですが、その人その人に適切なことばで仏教を語っておられます。もちろん5人の人はその場でお釈迦さまの弟子となりました。
 さらに、仏教のすべてが最高の弟子に伝えられる瞬間がまたみごとです。
 老いを感じられたお釈迦さまは、あるとき後継者を決めたいと高座につかれました。だれを指名するのか固唾をのんでいますと、お釈迦さまはにっこり笑って一輪の花を掲げられました。多くの弟子は何のことか分からずポカーンとしていましたが、ただ一人迦葉尊者だけがにっこりとほほ笑み返しました。お釈迦さまは迦葉尊者に席を譲って、その日の説法を任せられたということです。これが拈華微妙(ねんげみみりょう)という仏教相続の物語です。
家族に伝えにくくなった愛をあなたはどう伝えますか?

H24.11月のことば 「懐 石」(かいせき)
 フトコロに石をいだくのがなぜ料理のスタイルを表すのか、不思議なことばです。
 6世紀に禅宗を中国に伝えた達磨大師は、生活そのものが仏法であると説きましたので、できるかぎり忠実にインドの修行を中国で行いました。ところが、冬寒い国なので困ったのは食事です。本来、修行僧は一日二食で、しかも午前中にかぎります。そこで、暖をとるために石を温めて(温石)お腹に巻き、空腹をしのぎました。のちには、あくまで体を温める薬として、軽い夕食をとりました。それで禅宗では、現在でも夕食のことを薬石といいます。正式の食事ではないのでお唱えも短く、ときには、修行道場ではない別室でうどんやソバなど音を出してすするものなどもいただきます。しかも、おかわりも自由で若い修行僧には最大の楽しみです。こんなわけで、質素を旨とする茶道のお茶会では亭主がへりくだって、空腹をおさえる「温石」ほどの料理ですが、と勧めたのがはじまりといわれています。ところがなかなか凝っていて、あちこち走り回って集めた珍しいものを、少量、さりげなく出すようになり、それで懐石料理は高級料理になってしまいました。

 今でも比叡山での修行中の食事は、一汁一菜で、作法も大変厳しいものです。自分たちで食事の準備をし、配膳がすむと作法にしたがって、お経を唱えてから食事がはじまり、終わってからもお経をお唱えしますので、食べている時間より、前後の作法の時間のほうが長いくらいです。しかも、時間に追われて日程ををこなさなければなりませんので、少しでも食休みを長く取るため、当然のごとくゆっくり味わって食事をするということはありません。僧侶にとって当然食事も修行なのです。天台宗では、夕食を非食(ひじき)といいます。やはり午前中の二回のみが正式な食事と考えているからです。
 タイなどの仏教国では、修行僧は一日二食を今でも厳格に守っています。午後は液体しか飲めませんので、甘いコーラなどの甘味料入りの飲み物を大瓶でかかえて飲んでいる場合もありますが、その方が体に悪いんじゃないかと心配します。ゴマカシの一日三食の方がマシだと思いますが、飽食の時代といわれるように、現代日本人が一億総食い過ぎなのは事実です。
合 掌
文中の写真は「十三夜観月会の様子です」

H24.10月のことば 「うろうろ」
 還暦が近くなるともの忘れがひどくなります。自動車のキーなど、鈴をつけたら、ミッキーマウスの大きなホルダーをつけたりしても一緒です。忘れちゃいけないとわざわざ目立つ所に置いたつもりが、どうしてもその場所が思い出せません。先日も、出がけに法要カバンをひっくり返してキーを探したのですが見つかりません。うろうろしていると、妻の「ちゃんと決められたところに置かないからでしょう」という言葉で、いましがた入ったトイレに置いたのを思い出しました。途中で用事が入ると、前の仕事を忘れてしまうようになりました。もう、同時に二つのことを並行してすることは不可能になりつつあります。
 「うろ」は有漏と漢字を当て、漏とは煩悩のことです。煩悩がいっぱいあって、どうすればよいのか迷ってしまうのです。その極みが、女と酒に代表されるネオン街で、この煩悩のるつぼに入ると、男はウロウロするしかありません。いや女性も、ヨン様求めて韓国をウロウロしているのも煩悩のなせる術でしょう。

 この煩悩は百八あるといわれて、大晦日に毎年、除夜の鐘を撞いて清めているはずなのですが、一生涯悩まされます。お釈迦さまの説法はいつも静かで、理路整然としているのですが、煩悩を語った時はまったく違って「人生は激しく燃えさかっている」と熱っぽく語り始められたのです。「弟子たちよ、目も、耳も、鼻も、舌も、体のすべてが燃えている。そして心もその求めるものに向かっているではないか。貪欲の火、瞋恚の火、愚痴の火、生老病死の火、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悶えの火によって焼かれているではないか」と煩悩の火を一刻も早く消さねばならないと切々と訴えられました。
 お釈迦さまの考える安楽境とは、極楽といわれるような所ではなく、この欲望の火が消えた、静かで、清らかで、落ち着いた安らぎに満ちた場所なのです。ところが実際には、煩悩があって子孫が広がり、欲があって苦を乗り越えられるので、無漏(煩悩がない)万歳とはいきません。そこで、禅では「無?碍(こだわらない)」が大事だといいます。愛や食欲など生きるのに欠かせない欲は、それに執着しない強い心をつくればいいのです。
合 掌

H24.9月のことば 「ずぼら」
 ズボラはあっと驚くことに、坊主の逆さことばです。世の中が安定してきた江戸時代、坊さんも豊かになり、本来戒律を守って厳格なはずなのに酒色にふける者が出てきました。そんな坊さんをズボウ等とよんで軽蔑しました。それがズボラとなって、するべきことをちゃんとしない者を表すようになりました。
 もちろん、洋の東西を問わず、時の古今にかかわらず、仏教においてもお釈迦さまの時代から、堕落という悪魔との戦いは熾烈でした。ご自身にも城を出るときから悪魔はつきまとって「宮殿の甘美な生活へ帰って時を待とう」と甘い言葉をささやきます。苦行林での最後の断食修行に入られたときも、悟りを妨害しようと官能的な女性となって誘惑します。お釈迦さまは「悪魔よ去れ、この地上には私の望むところは何もない」とつっぱねられました。誘惑の悪魔は自分の心から湧き、悟りの仏も自分の内にあったのです。幸不幸も運不運さえ、自分が作り出し自分で招き寄せるものだと、のちの弟子に諭されました。
 日本でも、いわば公務員として公家の子弟たちが僧を独占するようになると権力をめぐっての争いが起こりました。新しく台頭した武士や商人に取り入る在野の僧も増えました。その堕落の中から親鸞や道元や日蓮が新しい仏教を旗揚げします。とくに川端康成がノーベル賞受賞スピーチで、「美しい日本の美しい僧」と紹介した道元は「わけも分からず経を読んでいるのは田んぼカエルと一緒だ」と非難しています。同じく清僧として挙げられた良寛は「僧侶たちは昼夜を別たず、形だけの読経や説教に声を張り上げているだけで、本分を忘れている。(中略)最近の住職は、修行もせず、悟りを得ている風もない。ただ檀家からの布施を貰っているだけで、罪深いことおびただしい」と手厳しいのですが、とても200年前のこととは思えません。
 さらに現代では、檀家制度に胡坐をかき、妻帯の在俗生活に浸って、人びとを救い、世を正す力を失ってしまいました。ここに自戒を込めて「現代僧の実相」を記します。

「わけの分からん料理(お経や法要)を、下手な料理人(勉強しない僧)から、サービスの悪い古い料亭(いばった僧といかめしい寺)で、講釈つきで食わされ(独りよがりの押しつけ説教)、最後に法外な請求書(不明朗で高額)がくる」・・・・まず僧が衿を正すべきです。
合 掌

H24.7月のことば 「愚痴」(ぐち)
 歳をとって出てくるのが、愚痴と()(ごと)といわれます。「言いたかないけど」なら言わなきゃいいのにと、かつて思っていた本人が「言わざるを得ん」と結局、言って嫌われます。お母さんが子供をしかるときも同じです。子供の方も「そろそろ勉強しないと叱られるな」と思っているところに、「黙っていれば、いつまでゲームをしているの。勉強しなさい!」と怒鳴るものですから、「やる気なくすなあ、だれがするものか」と逆効果です。でも、昨今の様子を見ていると、愚痴や繰り言ではなく、真っ向から言ってやるべきだと思います。
 「金は借りたら返すんだ」「年長者は立てるもんだ」「ありがとうとすみませんぐらい言え」「××××しなさい」……でも、たった一人の子供だと「おまえの好きなようにしていいんだよ」とトーンダウンしてしまいます。
 愚痴は、梵語のムフ(煩悩に迷う)ということばでした。愚も痴もおろかなものです。なぜかおろかというかと、それはこの世のあり方をよく知らなくて、ただ本能の欲に動かされて生きているからなのです。ときどき、そんな自分に嫌気がさします。清らかなもの、真っすぐなものに憧れます。このとき本当の自分、(仏性(ぶっしょう))が働き始めたのです。それでもおいそれと入っていけない、そんなジレンマがグチになるのでしょう。法然さんは「愚痴に徹してこそ、極楽に往生できる」とおろかである自分が出発点だ、と信者を励ましました。その弟子、親鸞さんはもっと徹底して、自分を「煩悩まみれのおろかもの」と呼んで、その親鸞さんでさえ救うてくださる、と阿弥陀仏への絶対信頼を打ち立てました。
 自分が行く浄土は、オリンピック選手のように、しっかりイメージングするといいかもしれません。それがあの世で迷わない秘訣かも・・。

合 掌

H24.6月のことば 「がらんどう」(伽藍堂)
 中に何もない空間のことです。伽藍堂とも書きます。梵語サンガーラーマの音写が僧伽藍で、仏教僧が雨季の間、集まって修行するところという意味です。
 インドは乾季と雨季に分かれており、不殺生を標榜(ひょうぼう)する仏教教団としては、生命活動の活発になる雨季に托鉢(たくはつ)で歩き回ると、多くの生き物の命をおびやかします。それでサンガ(精舎(しょうじゃ))にこもる必要がありました。雨季の間は座禅に励んだり、説法を聞いたりしました。現在でも座禅の修行道場では、安居(あんご)といって四月から七月まで外出を禁じて修行一本になります。そのようのいっぱいだった精舎も、乾季になると各地に説法や托鉢に出掛けたりして、ガランドウになった様子が窺われます。
 最初の精舎は、釈尊の一番初めの外護者であり信者となったビンビサーラ王の王舎城(おうしゃじょう)の郊外に建てられ、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)と呼ばれました。最も有名なのはスダッタ長者の寄進した祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)です。この長者は孤児や寡婦や独居老人を助けたので、孤独者に給する人(給孤独(きっこどく))と呼ばれました。釈尊に精舎を寄付したいと思い、目をつけていた土地の所有者ジェータ王子にかけ合います。王子は黄金を敷き詰めたら売ってやるといったので、スダッタは手持ちの財産を黄金に換えて、敷き詰め始めました。でもほんの少しです。次に使用人を手放し、商売の資本まですべて売り払い、自分は乞食同然になっても止めようとはしません。ついに、王子は土地を寄付して祇園精舎ができあがったのです。平家物語の冒頭に出てくる「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・」という釈尊の一番愛した精舎になりました。
 このサンガは一方で僧の語源となりました。僧と僧が集う場所と語が一緒ということは、仏道修行の大事な仲間意識を象徴しています。あるとき、阿難(あなん)尊者(そんじゃ)が釈尊に「友だちができることは、修行が半ばまで進んだ気がします」と言いますと「友だちができたことは、ほとんど悟りが約束されたも同然なんだよ」と喜ばれました。

 仏教は、入り口はとても易しいのですが、奥が深くてなかなか悟りに達することができません。同道の仲間がいて、ようやく歩みを理想に向かって進むことができるのです。

合 掌

H24.5月のことば 「台なし」(だいなし)
 メチャクチャになることですが、文字通り、仏像の台がなくなってしまって、威厳が損なわれた状態を指します。
 いまでこそ、たくさんの仏さまの姿を拝むことができますが、お釈迦さまのころは仏像はありませんでした。お亡くなりになってから、拝む対象を必要としましたので最初は足跡を石に刻んで礼拝しました。まだ怖れ多くて、お姿を描いたり彫刻するのはもってのほかでした。そのかわりとして、聖者の象徴の蓮華、樹下で悟りを開かれた菩提樹、仏教を車輪に例えた法輪、説法のときに陽射しを防いだ傘蓋(さんがい)などを描きました。

 最初の仏像は入滅後600年ほどたってから、ガンダーラやマトゥラなどインドのあちこちで造られるようになりました。アレキサンダー大王のパキスタン侵攻以来、ギリシャの神像を見たり造ったりした影響でしょうか、ガンダーラ仏は彫りの深いお顔で髪もウェーブがかかって、ギリシャ的です。けれど、マトゥラ仏はアジア的で髪も後世の仏像の約束事の螺髪(らほつ)です。もうお顔を覚えている者はありませんし、絵も残ってませんから、シャカ族の末裔をモデルにしたと考えられます。
 釈迦像が造られると、堰をきったようにいろいろな仏像が造られていきます。有名な「釈迦苦行像」のようなリアルなものから、真理を象徴したり仏説に出てくる仏をイメージしたりと広がっていき、ついには菩薩や明王、梵天などの諸天神から土着のヒンドゥーの神まで仏教の仏像として、礼拝所を荘厳していきました。これらの、仏像は端正な顔立ちの如来、菩薩像と、不動尊や四天王のように恐ろしい顔や奇っ怪な姿形をした像に分けられます。どうやら、政治的な思惑で支配したアーリア系を仏菩薩のモデルにし、守護神や仏のお使いである土着の神々と差をつけたようです。
 仏像は不変の象徴として、蓮(聖者は蓮に生まれる)の台座に乗り、背後には光背を背負って(後光が射して)、お体はまばゆい金色に塗られ(真理を具現して光り輝く)、あらゆる幸運と豊かさと福徳を証明する金銀瑠璃(るり)の宝飾に彩られています。さらに人びとは、どんな願いも叶えて欲しいと千体の薬師さまや千体の観音さまを一堂に集めてお願いをしたのです。
 この仏像を見るとき、忘れてならないのが手の形です。印相(いんそう)といって、この形や組み方で仏さまの種類や何をなさっているかが分かります。いわば仏さまのボディランゲージです。
 まず、お釈迦さまの代表的な五印を説明しましょう。
一、説法印(せっぽういん)
最初にお説法をされたときの像にあって、親指と人指し指で造った両手の輪をくっつけ合うもの
気楽にしなさいというポーズです。
いまでは、馬の尻尾のような払子(ほっす)や先の曲がった如意を持って話をします。
二、施無畏印(せむいいん)
不安や恐れを癒やすもので、右手を肩まで上げ、掌を聴衆に向ける
なだめるときにマアマアといって、いまでも同じ手の形をします。
三、与願印(よがんいん)
掌を下に垂らすと、願いを聞いてあげようという慈悲のポーズになる
施無畏印とよくセットになっています。
四、降魔印(ごうまいん)
人差し指だけ地に向かって垂らすと、悪魔は退散する
お悟りのとき、指を地につけると、大地の神が邪魔しに来た悪魔を追い払ったそうです。
五、定印(じょういん)
悟りを開かれた座禅の手組で、左手の上に右手をのせ、両親指先を向かい合わせた形で卵を掌のうちに包むように、結跏趺坐のふとももの上に置く
これは仏さまの定印で、私たちが座禅するときには組み方が上下逆になります。
右のももの上に左足、左ももへ右足、その交差の上に右手、その上に左手となります。

 阿弥陀さまには九品来迎印(くぼんらいごういん)、密教になると、有名な忍者のドロンのような智拳印(ちけんいん)ほか、もう無数の印があります。ちなみに、ふつうの合掌も印ですから、手を合わせるときも心して合わせましょう。
H24.4月のことば 「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)」
 メッポウ(滅法)は、仏の説く真理を超えたとんでもない状態を表しています。このメチャクチャ(滅茶苦茶)やムチャクチャ(無茶苦茶)も同じ意味を持っています。語源となったメッサ(滅作)やムサ(無作)は、滅法と逆で「人間の作為を離れ、因縁の法を超越した悟りの世界」のことです。こういう世界は、現実の人間にははなはだ理解しがたいので、頭はメチャクチャに混乱してしまいます。往年のお笑い芸人花菱アチャコさんも、あの世に行って初めて「ムチャクチャでござりまするがな」の意味が分かったことでしょう。
 ところで作を喫茶とは逆に、チャと読み替え、それに苦茶とゴロ合わせして大仰(おおぎょう)したわけですが、お茶と仏教、とくに禅宗とは深い関わりがあります。
 臨済宗の栄西(えいさい)禅師が中国に留学した折、頭をすっきりさせる飲み物としての効能を知り、帰国のときにお茶の種を持って帰りました。さっそく『喫茶(きっさ)養生記(ようじょうき)』を著して、その薬効を説き、お茶は禅宗のお寺を通じて全国に広まりました。佐賀県名護屋(なごや)に、禅師が持ち帰ったと伝えられるみごとな茶の古木があるそうです。
 また茶道は、大応国師が日本に伝えた中国の禅宗茶礼がもとになっています。一休が村田珠光(しゅこう)に手ほどきし、珠光は茶礼に芸術性を加えました。さらに、利休が精神性を加味して、日本を代表する文化に育ったのです。その中心は宗教、とくに禅が屋台骨になっていて、いまでも裏千家の宗匠(そうしょう)は大徳寺で出家得度をいたします。茶室の床の間には禅語の掛け軸が好んで掛けられます。「和敬(わけい)静寂(せいじゃく)」(静かにお茶をいただいて、亭主と客がお互いに敬い合い、和やかな安らいだひと時をもつ)や「一期一会(いちごいちえ)」(人の出会いをいつも一生に一度と思って大事にすること)などは好んで引用されています。

一休(1394〜1481)
  天皇の落胤といわれ、奇行が多く、一休さんでお馴染み。著作『狂雲集』。
珠光(1423〜1502)
  一休より茶を習い、点茶法を始めた。侘茶の祖。
利休(1522〜1591)
  茶道の大成者。武野紹鴎に学び侘茶を完成、茶人として信長・秀吉に仕えた。
H24.3月のことば 「たしょう (多生/他生の縁)」
 「袖振り合うもタショウの縁」を多少と書く方がほとんどです。まず、袖が触れ合うのは成人式だけ、下手に触れ合うと因縁をつけられるか、セクハラで訴えられるかとは、縁は多生(他生)どころか今生でこりごりです。
 仏教では成仏しないかぎり、生まれ変わり死に変わり(多生)という輪廻を繰り返して、永久に苦しみのリングから抜け出せないと考えます。釈尊のお悟りとは、この苦しみのカルマ(業)を解く方法でした。
 そのために、まずこの苦しみがどうして生じるのかを知らなくてはなりません。この世のものはすべてが縁によって生じ、時とともに移ろい、いつか必ず消滅しますから、こうなるという定めもなく、永遠に自分のものといえるものもありません。それに逆らってあてにし、固執するところに苦が生まれます。この苦が欲望や執着にあることを知って、その一つひとつを断っていくと、平穏で安らいだ境地(ニルバーナ)に至ることができます。
 ところが、このニルバーナは涅槃(ねはん)(仏陀の死)と訳されているように、生きている間に成就するのは難しいのです。なぜなら、仏教徒の第一戒である「不殺生(ふせっしょう)=殺すな」にしても、完全には守れません。私たちの生は食物という他の命によって支えられているからです。また、三十五億年にもおよぶ生存の闘争や、無数の先祖の犠牲の結果でもあるからです。とすれば、「不殺生」とはできるかぎり殺さないという努力目標に過ぎません。昔の年寄りの口ぐせの「無益な殺生をするな」です。そうすると、日本人が金にあかせて世界中から食料を買い集め、その七割を捨ててしまっている方が罪が深いといえます。以下、涅槃に至るための十重禁戒を検証してみましょう。

第二戒は「不偸盗(ちゅうとう)=盗むな」ですが、これも自然は人間のためだけにあるのではないし、牛は人に食われるために生きているのでもありません。「地球を救う」ではなく「地球から奪い過ぎない」のが人の生き残る道と目覚めないかぎり、環境は破壊され続けるでしょう。
第三戒「不邪淫(じゃいん)=不道徳なセックス」といっても、これだけ性犯罪が多発していれば馬耳東風ですね。それより、結婚したくない!や、こどもが欲しくない方が問題です。
第四戒「不妄語(もうご)=嘘をつくな」。宣伝や広告の世の中では嘘と美辞麗句に囲まれていますね。逆に真実を見抜く目、誠を感じる心を育てましょう。それには、自分が自分に対してまず誠実であることです。
第五戒「不飲酒(おんじゅ)=酒を飲むな」は、日本ではおそらく受刑者だけが守っています。こんな戒をまことしやかに唱えているのは、仏教者の怠慢です。禁麻薬戒とすべきです。
第六戒「不説過(せっか)=欠点、失敗をあげつらうな」。
第七戒「不自讃毀他(じさんきた)=自分を誉めず、相手をけなさず」。
第八戒「不慳法財(けんほうざい)=惜しむな」と、ここまではごもっともです。
第九戒「不瞋恚(しんい)=怒るな」とはわけもなく当たり散らすなということです。道元禅師は「言わなけらばならないことはちゃんと言いなさい」と八百年ほど前に言っています。親は子に、長老は若輩に対し、言わねばならないことを言ってから死なねばなりません。
第十戒「不謗三宝(ぼうさんぽう)=仏宝僧を大切に」は最も大事です。現在の日本のすべてが狂い、モラルが落ち、犯罪が低年齢化し凶悪化しているのは、政財界の偉い人ほど責任を取らず、医者・弁護士・僧侶・先生という指導者に使命感が欠落しているからです。何を大事にするか!それをエリートと呼ばれる人たちは真っ先に考えましょう。

H24.2月のことば 「ドナー(donor)」
  仏教信者の最も大事な心がけは布施です。布施を梵語でダーナといいます。中国では旦那とか檀那という言葉になりました。ちゃんと施主(といってもお布施をいくらにしようかなと考える程度ではなく、お寺を建ててあげようかなというくらい)ができる人のことで、王侯貴族や大商人を指しました。日本では江戸時代に、必ずどこかの寺に属するようにとの御触れが出て、一家の長がみな檀那となり、日本中のオヤジが旦那になりました。このダーナは西欧に伝わって寄付者を意味するドナーとなり、教会や慈善団体への寄付行為をドネイションといいました。とくに近年の心臓移植によって、いわば命を直接贈る行為ということで、慈善の意味を持つドナーという言葉が有名になりました。
 日本でも心臓移植のとき、お医者さんが殺人罪に問われないように、臓器移植法によって脳死が死と決定されました。数千年の死の概念を(くつがえ)すこの重大な諮問会議に、一番死に関わり合ってきた宗教者は一人も選ばれず、庶民感情も宗教的考察も排除して脳死法が成立しました。
 日本人の死は4000年以上も呼吸停止であり、心停止でした。しかも、死んで荒ぶる魂(荒霊(あらたま))となり、弔い、供養を受け白骨化して仏(和魂(にぎたま))になるのです。この時死体を傷つけると仏にならないとされたので、極刑さらし首でした。そこに突然「死んで無駄になる臓器なら、ちょっと死期を早めて役に立てればいい」と、まだ心臓が動き、温かくても死んだと医者が判定するようになりました。死が初めて、功利的な観点から動かされてしまいました。
 欧米では2000年のキリスト教の教えで、人間としての思考を失ったら物、また動物という考えが浸透しています。脳死によって二度と人間性が戻らないとき、人は死んだと諦められます。それで、天国へ召される最後の儀式を息のあるうちにするため、病院内に牧師をおくほどです。それでも切り刻んだ遺体は、きれいに修復されてお別れいたします。  日本では、葬式をして、僧が引導を渡して初めて死でした。この意識はなかなか変わらずに、ドナーの提供者は少しも増えていないようです。

 小生は、日本人としての永い歴史感は尊重すべきであると思います。地球上には様々な人種・宗教があります。それらを無理やり合わせようとすれば、必ず(ゆが)みやひずみが生じ、争いが生まれます。違いを認め合うことが本当の平等なのではないでしょうか。
文中の写真は「春の兆し」と「境内の霜柱」
H24.1月のことば 「極楽・浄土」
 「ありがとう」は有り難しです。めったにない幸運をあなたの縁でいただいてうれしいと感謝します。めったにない幸運とは、この世に釈尊が誕生されたことを指します。このときから、究極の救いが実現したのです。釈尊は「人は生まれによって貴いのではなく、行いや生き方で決まる」と説かれ、前世の因縁や身分制度に縛られた人々に希望を与えました。だから「ありがとう」には、あなたは仏さまの代わりです――という気持ちが込められています。
武士ことばの「かたじけなし」はすたってしまいましたが、合わせる顔がない、面目(めんもく)がたたないと恥入ります。ここにも救ってくれた相手に神仏を見ているのです。そこで、お返しすることができません、「すみません」になります。この面目は禅では「本来の面目」といって顔というありふれたものに仏の相が具わっていることを指します。
 お返し言葉の「とんでもない」「お気遣いなく」にも、私がしたことじゃありませんよ、という意味がこめられてきます。また「めっそうもない」の滅相(めっそう)は、この世の移り変わる状態の最後ですから、もう終わったことですの意味です。仏教では、布施や善行の功徳は、なされた瞬間に還ってくる、または善根を積むこと自体が仏のはからいと考えます。

 この考えは日本人に共感をもって迎えられました。狭い島国で仲良くやっていくには、何ごとも人のせいにしないことが肝腎(かんじん)です。かといって自分のせいにしたくはありません。そこですべて、ムシのせいにしました。「腹の虫がおさまらない」「虫の居所が悪い」。
 ・・・・・虫ではなく本人です。「浮気の虫」「パチンコの虫」「本の虫」そんな虫はいません。「カンの虫」や「ふさぎの虫」は虫下しではおさまりません。「虫酸(むしず)が走る」「腹の虫が鳴く」「虫が好かん」とおびただしい虫がぬれぎぬを着せられてしまいました。もちろん、「虫の報せ」で危難が避けらることもありますが、ニヤッと笑ってムシした方がいいでしょう。

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