常光院 縁起

名 称  龍智山 毘盧遮那寺
宗 派  天台宗
本 尊  釈迦三尊
霊 場  関東ぼけ封じ観音霊場二十八番
     武蔵国十三仏霊場十三番
     関東百八地蔵尊霊場十六番
     関東九十一薬師霊場三十八番


 長承元年(1132)藤原鎌足十六代目の子孫である判官藤原常光公が、武蔵国司に任ぜられて下向し、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着、館を構えて政務に精励したが、保延3年(1137)5月1日病没された。遺骸は館の東に葬られ近年まで常光塚(権現山古墳)として残っていた。

 常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、16歳にて石橋山の合戦には既に頼朝公に扈従していて信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画し、評定衆(現在の閣僚)として鎌倉に住んだため、自分の中條館を寺とし、五町余歩の土地を維持費として付し、祖父常光公及び殉死した愛童の菩提を弔うため、比叡山から天台の名僧金海法印を迎えて、建久3年(1192)開基したのが龍智山毘慮遮那寺常光院である。

 爾来法燈連綿として第41世を数え、この間徳川家康公は慶長9年朱印三十石、除地二十石、合計五十石の寺領を賜り、文禄3年(1594)には忍城主松平忠吉(家康の四男)が成田氏建立の下忍清水の聖天院を廃して常光院へ合併し、聖天院跡地を家臣小笠原半右衛門に屋敷として下賜されたときに、その屋敷の替地として上中條地内の田畑二町歩を常光院へ付せられた。

 合併の際の聖天院什物の一切が常光院へ搬入され、この中に太閤秀吉の禁制礼等があったために、後の新編武蔵風土記では、聖天院を上中條へ移して常光院としたと誤って記されたものと思われる。このときの聖天院は、常光院第十世住職澄舜法印が兼務していたことに因るかも知れない。


 常光院は、開基以来延暦寺直末で天台宗に属し、特に梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章「梶竪一葉紋」を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至り寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇を与えられ、東比叡山の伴頭寺とされてきたが、明治維新及び農地解放により5000坪の境内地を残して一切を失い、元禄5年(1692)再建の木造平屋建書院造り茅葺き150坪の大本堂、寛文12年(1672)改築の木造平屋根建破風造り瓦葺き十万石格式18.5坪の大玄関、元禄15年(1702)書院として建立。明治28年前庫裡を除去してその跡地へ改築した現客殿兼庫裡木造二階建瓦葺き60坪の他、天和3年(1683)建立の鐘樓堂、上・下門、書院、茶室など大小15棟の建物を保有し、この維持管理に窮している。

 その反面水田地帯の真ん中に古木の平地林、山王社の鳥居は本格的な山王鳥居として関東では珍しく朱塗りが映え、埼玉県指定の「ふるさとの森」の中には全国で初めてという芭蕉翁三百忌を偲ぶ四吉の連句碑、本格的な三十六歌仙句碑など大小の句碑が建ち並び、最近では境内散策の俳句寺として親しまれている。