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信 心(しんじん)
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以前、知人のある住職から聞いた話ですが、彼のお寺の墓地で出来事だそうです。あるお檀家さんが自分の家のお墓をお参りしてふと側を見ると、そこに何と白骨らしきものがあったというのです。お墓の中から出てきたものではなさそうですが、何だか気味が悪いからと彼の所へ知らせに来たのです。彼が行って確かめましたが、それは間違いなく骨でした。でもそれは人間の骨ではなく、何か小動物の脚の骨で、猫かカラスが肉を食べて骨だけ置き去りにしたのでしょう。彼がその人にこうお話しすると、その人はホッとしてお帰りになったそうですが、それにしても人騒がせな骨です。
しかし、小生は考えさせられました。なぜ人間の骨だと重大事件で、動物の骨だと捨て置かれるのでしょうか。これこそ重大な問題だと思いませんか。人間の骨 それは尊い人の遺したものだから大切なのですね。特に親族にとっては掛け替えのない宝物です。お釈迦さまの遺骨である舎利が広く供養されるのも、皆がお釈迦さまを恋慕しているからに他なりません。お釈迦さまを慕って渇仰の心を起こし、教えを求めてこれを信心しているわけです。信心とは本来「仏の教えを信じて疑わないこと」をさします。物質としてのお骨が拝まれるのではなく、お骨を通してその人の思い、仏様を拝んでいるのですね。また、イワシの頭も信心からといいますが、別にイワシを有難いと思っているわけではありません。イワシの臭さと柊のトゲが鬼を追い払ってくれると信じているわけです。
現代は心の時代と言われて久しいです。物を壊しても弁償さえすればよいとうそぶいている輩に、その物が何物にも代えがたい母の形見であるかも知れないことを教えてあげましょう。遺骨や遺品に限らず、物には人の心がくっついています。いや物自体に心があるのです。ぜひ信心してゆきたいものですね。そうすればきっと心豊かな人生が送れることでしょう。
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合掌 |
令和3年5月の言葉より |
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