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『あきらめる』
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コロナ禍、趣味の旅行に行けずストレスが溜まっている方も多いのではないでしょうか。
これも致し方ないこととあきらめて、辛抱いたしましょう。「あきらめる」という語はこのように悪いこと、消極的なことに多く使われておりますが、あにはからんや、本来は積極的な前向きな意味なのです。
物の道理をしっかりとらえ、原因、結果を明らかにすること、これが仏教本来のあきらめるです。物の道理が分かり、なぜそうなっているのかがはっきりすれば、迷うことなく、執着することもなくなりますから、中身はともかく、外から見た感じでは自然、今日的な意味でのあきらめるに近い状態となるわけです。しかし決して断念するのでもなければ放棄するのでもありません。達観するという意味でのあきらめならば、まだ本来のあきらめの意味に近いでしょう。あきらめるを漢字にすると諦とか明になりますが、これはつまびらかにする、あきらかにするという意味の字です。
修証義という書物の冒頭に、「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。これを、「生まれてきたのはしかたがない、死んでゆくのもしかたがない。これが因縁というものだ。」と解釈した人がおりました。
これは全く逆ですね。生とは何か死とは何かを積極的に究明し、これと一体になって生きぬき、死にきること、これが仏教徒の大事な課題です。世俗的なとらえ方でのあきらめではなく、本来のあき らめを成就し、明るい毎日を過ごしたいものですね。
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合掌 |
令和3年10月の言葉より |
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