住職の独り言    その193

 憂うつな梅雨空が続き、めいりがちな気分をどうやって晴らそうか、考える毎日です。
いよいよ一年遅れの、2020東京オリンピック・パラリンピックが始まるわけですが、手放しで開会式を心躍らせて待つ心境になれないのは、小生だけではないようですね。
 何事もそうですが、立場が違えば受け止め方も様々です。一方的に自分の考え方を押し通すことや、自分と違うからと言って否定してしまうのは、決して良いことではありません。今の時代・これからの時代、国を超え、人種を超えて相手を認め、自分と違うものでも、理解し共存することを考える。これがますます大切なことだと思います。2500年前お釈迦さまが、おっしゃり行動されたように‼

『疑えばすなわち華開けず』
 この一句については、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』【異行品】の中に、
  もし善根を種うるも、
  疑えばすなわち華開けず。
  信によって心が清浄になれば、
  華開けてすなわち仏を見たてまつる。
と、仏法に出逢う因縁に恵まれても、それを疑えば華は開かず、仏を見ることはできないが、信によって心が清浄になれば、華が開いて仏を見ることができると説かれている、その中の一句です。

 この「十住毘婆沙論」には、菩薩の仏道である十地の中の初地「歓喜地」と第二地「璃垢地」に対する解釈がなされています。初地には布施波羅密多(完成された布施行)が説かれ、「布施」を基本とした在家者の仏道が解説されています。その中の「易行品」とは、初地「歓喜地」に対する解説の中の大切な一章であり、そこには、「信方便易行(仏の教えを信ずることが手段となっている易行)」が説かれています。
 ここでは、疑と信との関係が提示されていますが、それでは「信によって心が清浄になれば」における信とは、どういうことでしょうか。たとえば、「イワシの頭も信心から(イワシの頭のようなごくつまらないものでも、信心しだいでは貴重な信仰の対象になる)」という諺がありますが、それと同じような意味で仏法を信じなさいということでしょうか。
 それとも、仏法とはどのような教えであるかは、難しくてよく分からないが、尊い教えのようであるから信じようということでしょうか。もとよりそのようなことではありません。

 お釈迦さまは等正覚を成し遂げて仏となられましたが、「仏」とは「目覚めた者」という意味であり、何に目覚めたのでしょうか。
 それは私たちの命はどのようなものであるかを問い、「私がいて、私が生きている」という自我による思い込みから解放されて、「生かされている私」という命の在り方に目覚めたのです。私たちの命は、無量無数といえるガンジス河の砂の数ほどのご縁の集まりによって成り立っているという「縁起の道理」を発見され、私たちは「縁起的存在」(ご縁のまま生かされている存在)であることに目覚められたのです。

 このお釈迦さまの目覚めに出会う以前は、自我の思い込みのままに、「生きていたい、死にたくない」と生・老・病・死の四苦から逃れようと悩み続けていましたが、ご縁のままにしか生きていないし、ご縁のままにしか生きることのできない命であるというお釈迦さまの目覚めに出逢ったとき、相変わらず四苦に右往左往して悩み続けていても。自分の命を「生かされる命、尊し」とご縁のままに引き受けていく世界に身を置くことができる者となるのです。それが「信によって心が清浄になる」ということです。すなわち、仏法に出逢ったということは、お釈迦さまの目覚めを実現した「縁起の道理」に出逢って、私たちもお釈迦さまと同じ地平に立っていることを信じることによって、心が清浄とならしめられて、「仏に成りたい」という願いを持って生きる者となることです。そのことについて、その『十住毘婆沙論』「入初地品」では、次のように説かれています。
  問うていわく、初地をどうして歓喜地となづけるのか。
  答えていわく、[声聞(出家者)は]初果(預流果・仏道にたつこと)
  を得たならば、間違いなく必ず涅槃に至ることができる。そのように、
  菩薩はこの初地を得て、心に常に歓喜が多く、自然に諸々の仏・如来と
  なる種が増加することを得るのである。
 ここには、仏法に出逢い、ひとたび仏法に目覚めてならば、出家者の限ることなく、すべての人びとがお釈迦さまの目覚めによって示されている涅槃の世界に、必ず至ることのできる存在であると知らしめられます。そのことを信じて歓喜する菩薩の第一歩が初歓喜地であると、初地を「歓喜」と名付けている理由が説明されています。このように、「歓喜」とは、目覚めによって得られるべき涅槃はいまだ得られていないけれども、それは必ず得られると、先だって歓ぶ心であると説かれているのです。

 したがって、「信によって心が清浄になる」とは、お釈迦さまの目覚めに出逢った者は、その目覚めによってもたらされる涅槃が、私たちにも必ず実現されることを信じることによって、私たちの心が清浄にならしめられることです。そのことを疑えば、華は開かないのです。

合掌
出典『十住毘婆沙論』
令和3年7月1日





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