住職の独り言    その182

 皆様コンニチワ。
熊谷名物の猛暑がやってまいりました。例年より長引いた梅雨がようやく明けたと思ったら、連日の猛暑・熱帯夜です。とはいっても、この辺りはお陰様で、災害らしい災害もなく、あり難いことです。一日一日が何事もなく無事に過ごさせて頂けることが、どれだけあり難く、幸せであるかつくづく思い知らされています。
 猛暑の中ですが、ご先祖様の供養をするお盆が近づいてまいりました。改めて、先人に思いを寄せて、感謝を申し上げたいと思います。

お釈迦さまが入滅される直前、最後のご説法の一節に
弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和(あいわ)し、相敬(あいうやま)い、争いを起こしてはならない。水と乳のように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励まし合って、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を
()み、道の果実(このみ)を取るがよい。
というのがあり、この中に「相和し、相敬う」という、仏教の教えに従う者の基本が説かれています。
ご承知のように、お釈迦さまはこの最後の説法の中で、
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、(みずか)らをよりどころとせよ。他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ。他の教えをよりどころとしてはならない。
と「自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう)」という有名な説法をされ、そして、説法を終えて、
弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。
しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無上の道理を身をもって示すのである。

と、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という別離の事実を説かれ、入滅されるのです。

 このようなお釈迦さまの最後の説法の中で「相和し、相敬う」と説かれている、それは何を意味しているのでしょうか。単なる(いまし)めなのでしょうか。そういうことであるならば、そのためにはどのようにしたらよいのでしょうか。私たちは、いつも「愛憎違順(あいぞういじゅん)」(時には愛しあい、時には憎しみあい、時には仲違(なかたが)いをし、時には仲良くする)」の生活を送っているからです。
 この「相和し、相敬う」ことが、どのようにしたならば実現されるかについて、この最後の説法の中で、次のように説かれています。
わが身を見ては、その汚れを思って(むさぼ)らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を()ては、その中に「()」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすればすべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。  中略  
数えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに
()つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を避け、常に無常を忘れてはならない。
もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の
(あるじ)となれ。
心は人を
(ほとけ)にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏となるのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道にはずれないよう努めるがよい。
 このような教えの通りに努め励むことによってこそ、「相和し、相敬う」という心を身につけることができるのです。この説法の中から、仏教の基本的な大切な教えを聞きとることができます。
(1) 世間におけるすべては苦の因であるという教えです。
聖徳太子が「世間虚仮(せけんこけ)  唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」と語られていますように、世間における楽しみも苦しみもすべて虚仮(いつわりで仮初(かりそ)めなもの)であり、それに固執(こしつ)すれば、すべては苦の因となるのです。
(2) 心には確かな「我」は存在しないという「無我(むが)」という教えです。ここに「我」と説かれているのは、自分の思い通りにしたいと固辞する心のはたらきの根源のことで、西欧の哲学では「自我(じが)」と呼ばれています。
(3) 世間のすべては因縁(いんねん)によって成り立っているのであるから、すべては「無常」であることを忘れてはいけないという教えです。お釈迦さまのお(さと)りは、私たちの存在は数えきれないほどの因縁によって成り立っているという「縁起(えんぎ)道理(どうり)」に基づいています。
(4) 私たちは、自分の思い通りにしたいという欲に(とら)われた心に左右されて、楽しんだり、苦しんだり、貪ったり、怒ったりしているのが、そのような心に従うことをやめて、私たちは心を()べる心の主とならなければならないという教えです。
 仏教は、お釈迦さまの「縁起の道理」に同意して自らの心を観察することを基本としている教えです。この教えに帰依(きえ)しなければ、「相和し、相敬う」世界が私たちの中に実現されていくことはないでしょう。

合掌
「相和し 相敬う」
令和2年8月1日









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